☆牧師からのメッセージ(59)☆

人格の成熟は時間の成熟の中で―超速時代と聖書―

先日、外を歩いていたら、自転車に乗った女性とぶつかりそうになりました。
その人は、携帯電話の画面を見ながら乗っていました。最近、電車の中、歩いている人はもちろんのこと、
自転車に乗っている人でも、携帯電話を使っている人の姿を、よく目にするようになりました。
携帯やパソコンの発達によって、確かに便利になりました。しかし、そのおかげで仕事が減ったかというと???
いつでも、どこでも情報にアクセスできるために、24時間途切れることなく仕事が可能になったのです。

現在の情報の増え方は、恐るべきものです。テレビのチャンネル数は増える一方です。
誰がこんなに多くの番組を見ることができるのかと思うほどです。グーグルで検索できるホームページは、
80億ページを超えているといわれます。1ページを1秒で見るとしても、全部見終わるには254年!かかります。
この先も、情報量は加速度的に増加すると予測されています。

これほど情報が増える速度が速いと、どうしてよいのかとまどう人も多いと思います。
いつも最新の情報を手に入れるために疲れ果てている人、ネットサーフィンで頭クラクラの船酔いを起こしている人、
とてもついていけないと投げ出している人、多くの情報に助けられている人など、さまざまでしょう。

こんな時代に生きていると、すべての情報は新しいものほど価値があると錯覚しがちです。
ところが必ずしもそうではないのです。黒崎政男氏(東京女子大教授・哲学)は、情報にはその速度が情報の価値に
大きくかかわるものと、そうでないものの2種類があることを忘れてはならないと言っています(朝日新聞より)。

現代において、私たちは情報を取り入れて瞬時に反応するだけの情報処理マシンの一部になったような気さえします。
しかし、人が成熟するためには、速度とはまったく無関係な情報、つまり人としての命の糧が必要なのです。
真実なよいものを得、時間をかけて吸収し、自分を造りあげていく。人格の成熟は、時間の成熟の中でなされるのです。


たとえば、命ある人を育てるためには、「ゆっくり待ってあげるから、心配しないでいいよ」というメッセージを
相手に伝えてあげることが必要な時があります。場合によっては、「いやになるほどじっと待つ」こと、腰をすえること
も必要になります。

超速で動いている現代において、変わらない聖書を読むことにはどんな意味があるのでしょうか?
こんな時代だからこそ、見失ってはいけないこと、変えてはならないこと、流されてはならないことを、
聖書から教えられるのです。それがあなたの人生の軸となり、核となり、祝福となります。

「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、
私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。・・・あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます」
(詩篇16:8-9,11前半)。

☆牧師からのメッセージ(58)☆

意欲、沈んでいませんか?

皆様、お元気でしょうか?5月に入って疲れは出てきていませんか?
今回は、ごいっしょにどうしたら意欲が高められるのかについてみ言葉と共に考えてみましょう。

先日発表された、日本の高校生と米中韓国の高校生を比較した調査結果には驚かされました。
日本では、自分の能力を発揮することよりも、のんびりと平穏に暮らしていきたい高校生が圧倒的に多くいます。
また、日本では「偉くなること」は責任が重くなることとしてマイナスのイメージが強く、他国では、
「能力を発揮できる」、「尊敬される」といったプラスのイメージが強いようです。(日本青少年研究所発表)

今の10代を「老ティーン」と名づけたのは、中村恭子さん(博報堂生活総合研究所)です。
出世するよりリストラされない。幸せになるより不幸せにならない、高望みせず、欲張らず、やり過ごす。
挫折したくないから、挑戦もしない。(朝日新聞より)

「下流社会」がベストセラーになった三浦展さんは、学習意欲、コミュニケーション意欲、生活意欲など
人生への意欲が乏しい人たちの増加傾向を指摘しています。
こういった傾向が私自身の内にもあることを、アメリカにいる時に気づかされました。
私は必死に学んでいたのですが、周りの留学生に比べると迫力に欠けるのです。彼らの多くは貧しくても、
「国を、教会を、教育を変えていくんだ!」、「世界宣教をするぞ!」などというビジョンに燃え、覇気がありました。
自分が変えていくぞと、まるで日本の明治維新の頃に生きているような留学生がたくさんいました。
どうして多くの日本人が、こんなにこじんまりとなってしまったのでしょうか?
おそらく、日本では何をしても生きていけるほど物質的に豊かになったからでしょう。
無理せず、好きなことをして、ほどほどの暮らしをしていきたいと思う人がふえました。
もう一つの理由は、共有できる大きな夢やビジョンがないことでしょう。

では、クリスチャンとしてどう生きたらよいのでしょうか?
そのカギは、イエス様の生き方にあります。

「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、
仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、
死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました」(ピリピ2:6-8)。

どうしてイエス様はここまでできたのでしょうか。
それは私たちへの愛、何としてでも罪の滅びから救い出したいという愛です。
父なる神様の望まれることを、すべてを捨てても成就しようという使命感です。

私たちはクリスチャンとして、もう一度この原点に立ち返りましょう。
自分だけのことでなく、愛する家族や友人の救いのために真剣に取り組んでいきましょう。
そして、神様が望んでおられる社会を築くという大きなビジョンに向かって、神様から自分に与えられている
使命を誠実に果たしていきましょう。
あなたに「使命」を与えてくださった神様は、それを果たせるだけの「意欲」も必ず与えてくださいます。
一度限りの人生で、命をどう使うか。イエス様の生き方に少しでも近づきたいと思います。

☆牧師からのメッセージ(57)☆

いのちの輝きあふれて

新緑がまぶしく、新しい命を感じる4月を迎えました。
入学、進級、就職された方、新しい環境になった方も多いことと思います。
のぼりと教会では、4月8日にイースター(復活祭)を迎え、私たちの最終的な希望を見上げ、喜びのひと時を持ちました。

皆さんは絶対に間違いのない統計を知っていますか?
あてにならない統計は多いのですが、絶対に間違いのない統計数字が一つあります。
それは人の死亡率で、100%です。
私たちの誰もがいずれ死を迎えます。もちろん私もです。

私にはこの4月で、小学1年生と高校1年生になった2人の子どもがいます。
2人ともかなり幼い時に、同じようなことを真剣に尋ねてきました。
「ママって死んじゃうの?」「パパは?」「僕はどうなるの?」「死ぬってどういうこと?」
「お別れはいやだよ」「死んだ後どうなるの?」・・・

ほとんどの子どもたちが、小さい時に、死のことを真剣に考えます。
そしてそれをあやふやにしておくとずっと不安を持ち続けます。
けれども真実な死生観をはっきりと教えられるなら、死と命をきちんと受けとめることができます。
そうすると、子どもたちは生きることにすばらしい意味を見出していきます。

聖書にはこのようにあります。

「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。
それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。」(第2コリント5:1)

私たちの地上の歩みは、楽しいことやうれしいことだけでなく、いろいろな苦しみもあるでしょう。
しかし、この現在の苦しみはやがて永遠の栄光へと続いていくのです。
「私たちの住まいである地上の幕屋」とは私たちの体のことです。
たとえ私たちの体が死によってこわれることがあっても、それで終わりではないのです。
神様と共に歩む人生は、死は死で終わることはないと・・・。
聖書の死生観を知るなら、死を恐れることもなく、また死よって無になるのでもなく、天国への希望を持つことができます。

私はこの地上で牧師・教師としての使命を果たし終えたら、妻と子どもたちに
「天でまた会おうね。ずっとずっと愛し祈っているよ」と言おうと思っています。
いのちの輝きにあふれて神様のもとに帰っていけるとは、何と幸いなことでしょうか。

  『美しい四季の風景にめぐまれている日本において、春夏秋冬、それぞれに、生きとし生けるものの
ドラマが展開していきます。けれど、ふと、思うのです。春が過ぎ、夏が来て、秋を迎え、やがて冬となる・・・
この当たり前と思っていた四季の移ろいが、やがて、途切れる時が一人ひとりにやってくる。
そして、5つめの季節への身繕いをして旅立つ時が確実にやって来る。』
(「5つめの季節」p.62-63)

私たちは命の輝きにあふれて、共に天国への道を平安をいただいて歩んでいきましょう。

☆牧師からのメッセージ(56)☆

子育てと卒業の恵みから

卒業された方々、ご家族の皆様、おめでとうございます!
この春わが家でも、娘が中学校を卒業し、息子が幼稚園を卒園しました。
私たち夫婦が今までの子育てで、どうしても必要だったことって何だろうという話になりました。
それはいくつもあるのですが、その中の1つに忍耐が必要だよねぇということで一致しました。

ある牧師が、どうやって人を育てたらよいのかという話をする時、いつもこのように話すそうです。

「1年で何かを育てようと思うなら花を育てること。10年で育てようと思うなら木を育てること。
100年をかけて育てようと思うなら人を育てること。聖書の中に「あなたがたが神のみこころを行なって、
約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」(ヘブル10:36)とあります。
人を育てるとは、忍耐の一語に尽きるのではないでしょうか。」(田中信生「生活の処方箋」36)

どんなことがあっても忍耐を持って待つ勇気が、子育てや私たちの人生には必ず必要になると思います。
人生にはいろんな発見、驚きの経験ももちろんあります。けれども、もう一面では、平凡なことの繰り返し、
積み重ねではないでしょうか。

お母さん方が、毎朝、寒くても暑くてもまず起きて、朝、昼、晩と料理し、お弁当を作り、
お皿を洗い、買い物をし、そうじ、洗濯、おむつを換え続け、おふろに入れ、寝かせ、夜も授乳したり、
ふとんを蹴飛ばしてないかと気にかけ、また朝が来る。
小さい頃は、一つ病気をしたかと思ったら次にまた・・・と医者通い。
疲れを覚えながらも、こんな平凡なことをとにかく毎日毎日繰り返してこられたのではないでしょうか。

こうしてお母さん方は、忍耐というすばらしい価値を輝かせてこられたと思います。
平凡なことの繰り返しを決して投げてしまわないこと、それが私たちの人生ではないでしょうか。
人生は、1日1日、小さなこと、平凡な出来事の繰り返しです。
「平凡」それは静かな宝物。平凡とは、退屈で刺激のないことではありません。
わが家でも何か大変なことが起こって、平凡が失われてみて初めて気づかされた神様からの恵みでした。
一つ一つの繰り返しが、子どもたちの心と体の大切な一部となっていきます。

最後に、少し年配のクリスチャンのご婦人から最近お手紙をいただきました。その中にこんな文章がありました。
「年老いてくるとゆるやかであっても坂道の上にある家までたどり着くことが疲れるのです。
「うゎーあんなに先!」と、気持ちもがっくりします。でもそんな時は、遠く坂の上を見ないようにして、
帽子を少々深くかぶり、一人でなく神様といっしょに一歩一歩、足先を見つめて歩いていく。
するといつの間にか到着です。特に先のことを考えると気がめいってしまいそうな時は、
今、目の前のことを一つ一つ神様といっしょにしていこうと思います。
私の子育ても、同じような時がありました。神様と共に祈り、信じ、歩んできたことを思い出しました。」
という文章があり、「本当にそうだなぁー」と励まされました。

平凡のすばらしさ、ひとりぼっちでない忍耐を通して、神様から祝福をいただきましょう。

☆牧師からのメッセージ(55)☆

スピリチュアル・ブームから見えるもの

本屋さんに入って目に飛び込んでくるのは、平積みされたスピリチュアル・カウンセリングや占いの本・本・本・・・。
占星術、前世占い、タロット占い、パワーストーンなどなど、今の日本は、「スピリチュアル・ブーム」が花盛りです。
テレビでも雑誌でも、おなじみの顔がいつも登場しています。

何がそれほど、日本人の心をとらえているのでしょうか。
自分の都合のいい時だけ、自分のことを知りたい。
漠然とした不安の中、自分を肯定して生きていきたい。
ストレスが多く疲れを覚える中、いやされたい。
自分や家族に起こるよくない出来事の意味を知りたい(その答えには、必ず前世や霊がでてきます)。
現状に不満があるので、来世に希望を持ちたい。
誰も自分をわかってくれないという孤立感の中、目に見えない何かとつながっていたい。
自分の進むべき方向を教えてほしい。・・・

経済が右肩上がりに成長していた時代は、目に見えて物質的に豊かになっていくことで皆が満足し、
家庭でも職場でも一体感が持てました。しかし、経済が伸び悩み、社会に閉塞感が漂い、家族も職場の
人間関係もバラバラになっているように感じるようになって、スピリチュアル・ブームが到来しました。

弓山達也(大正大学教授)は、こうしたブームに対して、
「自分にしか関心がなく、不安な自分を肯定する手段に使う若者が多い。行きすぎた内面志向に陥らないかが心配だ」
と語っています(朝日新聞2007.1.8)。

多くの人が心のどこかで、何か自分を超えたものや、つながりを求めています。
それには、ちゃんとした理由があるのです。
スピリチュアリティーのおおもとは、スピリット(霊)なる神様です。
私たちは、神様によって「神のかたち」に創造されているので、自分を超えたものや、
霊的なつながりを求めているのです。

スピリチュアル・ブームの中で、何となく気持ちが軽くなったり、納得しやすいことはあるかもしれません。
けれどそれは、根本的な解決ではないと思います。私たちがいろんな不安から解き放たれるためには、
私たちを本当に意味で愛してくださっている神様と出会う必要があるのです。
人は真実な愛で愛されない限り、そんな愛に出会わない限り、次々と浮かんでくる不安、かわき、
迷いが満たされることはないだろうと思います。
あなたも一時的なブームや人が語る言葉に惑わされることなく、永遠に変わらない真実な神様の
スピリチュアリティーを求めませんか? 

「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。
それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。
なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。
人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。
それによって神からの霊を知りなさい。
イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。
それは反キリストの霊です。
あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。」(第1ヨハネ4:1-3)

☆牧師からのメッセージ(54)☆

2007年 何によって生かされていきますか?

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。
のぼりと教会は、すべての年齢の方々が出席しています。クリスチャン小中学生も礼拝に出席しています。
若い日々に聖書から教えを受けることは、きっと生涯のいろんな時の助けになり、幸せの土台になると確信しています。
でも、まだ小学生のお友だちからは、
「ぼくしー!!もっとおもしろいメッセージにしてよォ」なんて声が聞こえてきそうです。
そんな子どもたちのために、昨年後半から、メッセージの中に子どもたちが参加できるクイズを入れたり、
プロジェクターや視覚的な教材を用いるなど、祈りつつ知恵を求めている「ぼくしー!!」です。

新年礼拝では、
「私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)

をとりあげました。

この言葉がどうしたらわかりやすく心に届くことができるかと考え、ぷっくりしたハート型のキャンドルに
灯をともして、私たちの内にキリストが輝いていてくださる場合、私たちがキリストを遠くにしてしまっている場合、
いろんな妨げの風が吹いてきて灯がユラユラゆれている場合、大きな試練で灯が消えかかったような場合などを、実際に
キャンドルでやりながら、お話ししました。
皆さんも新しい1年、どのようなことが起こるかわからないでしょう。私もです。
しかし、すべては神様のみ手の中にあります。

私たちにとってもっとも大切なことは、
イエス様を豊かに私の命の中心とすること、
私の心の心とすることです。(ナーウェンの言葉)

今年の私たちの霊的な目標として、内なるキリストに生かされる歩みを目指しましょう。
具体的には2つの目標があります。

1.内なるキリストを育てる 
私たちの内では、自我とキリストのどちらが主導権を握っているでしょうか?
自己中心の思いが強くなれば、キリストが弱くなり、自己中心の思いが弱まれば、キリストの主導権が強くなります。
そのためには、

@自己中心の思いを十字架につけて捨て去ろう。自分の心が神様お一人に定まっていないことから、平安が失われ、
試練が起こってくることがよくあります。過去にとらわれ、この世の生活に執着するところから、私たちは誘惑を受け、
歩むべき道からはずれてしまうことが多いのです。ですから、神様に祈って、自己中心の思いとして示されたことは、
少しずつでも十字架につけて捨て去る努力をしましょう。

Aキリストの思いを知ろう。日々のディボーションと礼拝を大切にしましょう。

2.内なるキリストによって生かされる
私たちの内にいてくださるキリストの主導権が強まれば、私たちの思いや行いにキリストの思いと行いが現れてきます。
2007年、私たちの内なるキリストに生かされる歩みを目指しましょう。神様の導きと祝福をお祈りしています。

☆牧師からのメッセージ(53)☆

クリスマスに開けられた扉から

みなさま、アドベント(待降節)のこの時期、いかがお過ごしでしょうか。
のぼりと教会でもイルミネーションが輝き、馬小屋セットもライトアップされて、
クリスマス礼拝の日を待ち望んでいます。
ところで、私の家族だけがエレベーターに乗っている時は、息子のノブ(6才)がエレベーター
ボーイのような役割をしてくれます。エレベーターに乗ると、右側に各階を表す数字のボタンとドア
の開閉のボタン、そして開延長というボタンがあるものもあります。
ノブは結構うまいもので、乗りたそうな人が遠くから来るのを察すると、開延長のボタンを押して待っています。
その人は間に合ってうれしそうな顔で乗ってきます。ノブもたまーにドジって家族が後から乗ってくるのに、
閉じるボタンを押してしまって、あとの家族がオットットと扉に挟まれそうになったこともありました。

もうすぐクリスマスです。クリスマスは神様が私たちに救いの扉を開けてくださった歴史的な出来事です。
神様が大切なひとり子イエス様を送ってくださったクリスマス。それは、まさに真っ暗な部屋に差し込んだ一条
の光のように、私たちのよごれた心の中に希望の光が差し込んできたのです。救いの扉が開かれている今、私たちは
光の中へ、救いの中へ、神様の恵みの中に招かれています。
しかし、クリスマスの時に開かれた救いの扉が、いずれ閉じられる時が来ることを私たちは知っていたいと思います。
それはイエス様が再び来られる時です。イエス様はご自分が再び来られる日のことを、次のように話しておられます。

「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、
人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらって
しまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」(マタイ24:37-39)

たとえていうなら、神様は2千年前の世界で初めのクリスマスの時から、私たちのために救いの扉の開延長ボタンを
押し続けて待っていてくださるのです。それはひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めて救われること
を望んでおられるからです。私たちは愛と忍耐の神様に感謝して、救いの扉が開いているうちに「お願いします。私の罪を
赦して、あなたの救いに入れてください。」と素直に入れていただきましょう。2006年のクリスマスの扉から・・・

御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」ルカ2:10-11

☆牧師からのメッセージ(52)☆

どうしたら子どもは生きていけるのでしょうか

最近、残念なニュースが続いています。
子どもたちがいじめられたり、自らの命を絶つことが続いています。
本当に悲しく胸が痛みます。

こういったニュースを聞くと、多くの人たち、特に親も子どもたちも、不安の中にいるのだなと思わされます。
どんな不安でしょうか?それは、私は歓迎されているのかな?ということです。
僕がいて喜んでくれているの?
私がいていいの?
うれしいの?
僕が生まれてきていいの?
自分の誕生についての不安や、自分の存在が周りの人たちに歓迎されているだろうかという不安が、
いじめる子にも、いじめられる子にも、どちらでもない子にもあるのです。

いじめとは、別の言葉で言うなら、「あなたは歓迎されていない」というメッセージを言葉と行いで
表していることです。自分が歓迎されていないというメッセージを受け続けると、子どもも大人も、
生きていけなくなります。

神様は子どもたちの存在を、一人ひとりとても大切な尊い命、愛されるべき人として見てくださっています。
神様は子どもたちを歓迎してくださっているのです。神様が命を与え、地上でなすべきことを備えてくださいました。
「私があなたを地上に送り出したのだよ。よく生まれてきたね。」
それが神様の気持ちです。教会は子どもたちを大切に愛していきたいと願っている所なのです。

あなたは、神と人とに自分の存在、自分の命が歓迎されているという安心、平安があるでしょうか。
正直なところ、確かに私たちはすべての人を歓迎することはむずかしく感じるかもしれません。
「あの人はちょっと苦手・・・」なんて思うことがあるかもしれません。私たち人間には完全な愛はありません。
けれども、感謝なことに、神様だけはすべての人を歓迎してくださるのです。
なぜなら、神様だけが完全で真実な愛のお方だからです。人はこの愛を知るまでは、心が満たされません。
私たちはこの神様の愛を知るときに初めて、本当の安心、平安をいただくことができるのです。

まずお父さんお母さん自身、そして大人が、自分は愛されるために生まれたんだ、歓迎されているんだ
ということを知っていただきたいと思います。そうでないと、子どもたちを歓迎すること、子どもたちが
愛されるために生まれたんだということがわからなくなってしまいます。どうか、自分は大歓迎を受けている
という自信を持ってください。歓迎されている自信を持っていれば、人は生きていけます。
あなたは愛されるために生まれてきたのですから。

「きみは愛されるため生まれた きみの生涯は愛で満ちている 永遠の神の愛は  われらの出会いの中で実を結ぶ きみの存在が 私にはどれほど大きな喜びでしょう」

☆牧師からのメッセージ(51)☆

松原湖研修会の恵み 2006

湖にはカモが泳ぎ、散歩道にはツヤツヤした小粒の栗がたくさん落ちている・・・
そんな松原湖バイブルキャンプ場でおこなわれた研修会に、今年も参加してきました。
松原湖研修会は通称「松研」、そこでの賛美は「松研賛美」、でも踊りませんでした。

1.ディズニーランドにまさる感動を!
最初の2日間は伝道懇談会でした。今年のテーマは「開拓と自立:行き詰まりと失敗の中から」
と題して、内灘聖書教会の横山幹雄牧師が話してくださいました。
爆笑のうちに、失敗経験とそれをどうやって乗り越えてきたかを聞くことができました。
特に印象的だったのは、ディズニーランドの話です。今どきの日本人は教会に来なくなった。
ではどこに行っているのか?それはディズニーランドだ!ディズニーランドに行って感動した人は
リピーターになり、感激した人はある種の信者になっていく。
確かにディズニーランドと教会の目的は根本的に異なりますが、今の教会には教会独自の魅力と感動は
あるのだろうか?人が作ったものであれだけのことができるのだから、本物を提供する教会は、それ以上
のことができるのではないか。
私たちのぼりと教会は、何をどのように提供できるのか、大きなチャレンジを受けました。

2.生きざまをもって語る
次は松原湖研修会、テーマは「礼拝」でした。旧約、新約、宗教改革における礼拝について、
内容の濃い講義を聞きました。もっとも印象深かったのは、私と同い年の親しいE牧師でした。
E牧師は、最近、徐々に体が動かなくなっていく原因不明の難病とわかりました。
やせて動きにくくなった体で、
「これが私の最後の話になると思います。私は声がでなくなるまで、毎回、これが最後の説教、
これが最後の奉仕になるかもしれないと思って、真剣に取り組んでいます。」
と淡々と語りました。
その姿は、多くを語ってくれました。
神様から自分に与えられた勤めを、最後まで忠実に果たしていこうとする生き方。
神様を信頼し、すべてをゆだねていく信仰者の姿を見ました。
私たちは地上の生涯の終わりに、

「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました」(第2テモテ4:7)

と言える生涯を送りたいと思わされました。

3.多様な人々の必要性 今回の研修会を通して感じたことは、多様な専門家の必要性です。
一人ですべての分野を学ぶことなどできません。いろいろ学んでいる人がいてくれるから、
他の人に貢献できるのです。私も教育や学習の分野で貢献すべきことを再確認しました。
皆さんも自分が貢献できることは何でしょうか。
ぜひあなたしかできないことで、主の業に貢献していってください。
そして皆でのぼりと教会を豊かにしていきましょう。


☆牧師からのメッセージ(50)☆

半径50センチの世界からの脱出

30代前半のあるコンピュータープログラマーが、突然、会社をやめました。
転職ではなく、引退だと言います。
その理由は、「一生遊んで暮らせるめどが立ったから」と言うのです。
「1本あれば何ヶ月も遊べるゲームソフトを、すでに1000本以上持っている。それらを順番に
遊んでいるだけで残りの人生は費やせてしまうことに気づいた」のだそうです。(朝日新聞より)

この話を聞いてあ然とするのは、(私を含めて)古い世代。
「うらやまし〜い」と感じるのが、若い世代のようです。
若い人の中には、「ゲームをやっていられれば最高」と言う人がとても多くなっています。
だから、これからの時代、身体的ひきこもりだけでなく、精神的ひきこもりの人々もますます
増えていきそうです。

時代と共に、物事の判断基準が急速に変化しています。
少し前までは、「国家のため」、「人のため」ということに価値が置かれていました。
ところが最近は、「快・不快」ですべてがかたづけられてしまうのです。
自分にとって快適なものは善、不快なものは悪。
お金をかせぐのも、おいしいものを食べるのも、ファッションも、異性と付き合うのも、
ゲームもすべて、自分が気持ちよく感じるためです。

「人が自分に正直になった」と言えば、そのとおりでしょう。
豊かな世の中になって、関心が自分のことだけに集中しています。
半径50センチの世界で生きている人がなんと多いことでしょうか。
しかし、忘れてはならないのは、こういった傾向と精神的破たん、共同体の崩壊は
密接に結びついているということです。

主イエスが悪魔の試みを受けられた時、悪魔はこの世のすべての栄華を見せて言いました。
「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
ちょうど、現代の私たちが求めているものは、悪魔をひれ伏して拝み、この世のすべての栄華、
快楽をくださいと求めているようなものではないでしょうか。
主イエスは悪魔に何と答えられたでしょうか。
「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と(聖書に)書いてある。」

すべて存在するものに造られた目的があるように、私たち人間にも造られた目的があります。
それはまことの神様を礼拝し、仕えることです。
その時にこそ、本当に心から満たされることができるのです。
自分の快適さだけを追求する人は、本当の幸せ、満足を味わうことはできないのです。
あなたは快適さを求めるあまり、知らず知らずのうちにサタンにコントロールされていないでしょうか。
半径50センチの世界から脱出し、共に神様を喜び、力をいただく世界に入りましょう。

☆牧師からのメッセージ(49)☆

平和をつくる者の幸い

暑い日が続いておりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
8月は広島と長崎の原爆記念日があり、15日は敗戦記念日です。世界各地で戦いも続いています。
この機会に、平和について少し考えてみましょう。
ノートルダム清心女子大学長であった、渡辺和子さんが卒業式に語った言葉の一部をご紹介します。

「戦争のない状態、または戦争を避けようとする努力、プラカードを掲げて戦争の反対をとなえる行動、
これらはすべて平和のために大切なことかも知れません。しかしながら、より大切な、そして私たちが毎日の
生活の中でできる平和への貢献は、私たち一人一人が、平和をつくる人になるということです。
フルトン・シーンというアメリカの有名な宗教家が、「かつてこの世に起こった戦争の中で、まず人の心の中に
始まらなかった戦争はなかった」と言っています。あなた方の家庭を破壊から守り、愛する人々を戦場に
送らないようにするためには、皆さん方が、まず心の中に平和をつくること、そして、その平和を家庭、職場、
社会、そして広く世界に広めていくことが求められています。
平和というものは、私たちが何もしないで、ただ待っていれば来るものではなくて、矛盾のようですけれども、
闘いの後にまいります。 ・ ・ ・ 私たちが自分と闘うということが必要なのです。とかく安易な道に流れがちな
自分に対して闘うこと、よりよい自分に成長しなければならない、その努力を怠りがちな自分と闘うこと、
社会の不正義に対して目をつむって、自分さえよければ良いと言いたくなるその自分に対して闘うこと、
これが平和を心の中に、そして社会の中に生み出していくうえで、必須のものです。
利己主義が当たり前の社会にあって、今の時代に珍しい思いやりと優しさが人間の本当の美しさを形づくるということ。
本当の幸せは、他人の幸せを願うその心にあるということ。そして人間関係に明け暮れする中で、神との関係を
正して生きなければ、しょせん、人間関係もむなしいものだという真理。これらを忘れないでください。」

私たちがどこへ行っても、周りに平和をつくる人となりましょう。
私たちの行く先々において、争いでなく、憎しみでなく、神様の愛と平安がつくられますように。

「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子供と呼ばれるからです。」マタイ5:9

☆牧師からのメッセージ(48)☆

教会は生ぬるい?

一般企業で働いている皆さん、毎日お疲れ様です。朝早くから痛筋電車に乗り、食事の時間もあまりとれず、
終電で帰るのはあたりまえ・・・なんていう方もいらっしゃるでしょう。
こういう「企業戦士」のような方が教会を見ると、「何と生ぬるい所だろう」「甘いなぁー」という印象を感じる
ことがあると思います。今回は、一般企業と教会の大きな違いをごいっしょに考えてみましょう。

1.利潤追求VS 神の栄光追求
一般企業は、企業の利益を追求します。企業の維持、拡大のためには、利益をあげることがどうしても必要でしょう。
それに対して、教会は利益を求めません。この点が一般企業と大きく異なります。教会が追求するものは「神の栄光」です。
教会は聖書に示されている「神様が望まれること」に従おうとしています。それは、神様を愛し、人を愛することです。
一人でも多くの方が神様のご愛を知り、救われて人間本来の生き方に戻り、神様の望まれる社会に近づくことを目指して
努力しています。
誰もが知っている大企業でも、百年以上続いている企業はまれです。それに比べて、教会は新約時代だけで二千年以上
続いています。利益を追求してこなかった教会がこれほど長く続いている理由は、教会は人が造ったものではなく、
神様が造られたものだからです。

「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイ6:33)

という神様の約束のとおりに、教会は守られてきました。

2.リストラVS 永久雇用
一般企業は利益をあげるためには、リストラがあります。能力が足りないと思われたり、業績をあげることが
できなければ退職を勧められます。しかし、教会は誰でも歓迎して受け入れ、人間的な考えや判断で切り捨てること
はしません。一度与えられた神様からの永遠の命はなくなることがありません。企業は「能力主義」で、教会は
「全員必要主義」です。神様はすべての人を愛し、皆を必要としておられるのです。教会にはあなたの居場所があるのです。
けれども注意すべきことがあります。教会は金銭的な収入にならないし、何をしてもしなくてもリストラされない
ということで、どうでもいいとか、手を抜くようになったら、神様の栄光を現すことができない仮死状態の教会に
なっていきます。クリスチャンと神様との関係は、従業員と企業との関係とは全く質が異なります。教会は、一般企業
よりもはるかに高い理念を持っています。教会は「神の栄光」を求め、地上で天国の一部を味わえる幸いなところを目指して
いるのです。

☆牧師からのメッセージ(47)☆

失敗を活かそう

私たちは毎日、様々な経験をしながら生かされています。その中でも失敗の経験は、とても大きな影響があります。
今回は、失敗について共に考えてみましょう。

私は東京キリスト神学校で「キリスト教教育」のクラスを担当しています。その中で、最初にみんなで考える
課題があります。それは、「今まで自分が受けてきた日本の教育の長所と短所は何でしょうか?」というものです。
よかったら、皆さんも思いつくままに紙に書き出してみてください。ちなみに、どうしてこんなことを考えるのか
わかりますか?それは、今まで自分が受けてきた教育を振り返って、身につけてきた価値観、思考パターンなどを
客観的に認識するため、あるべき教育を考えるためです。

毎回、大変興味深いディスカションがなされます。短所として挙げられることはたくさんありますが、その中でも
以下の点は深刻な問題です。「正解を短時間で効率よく探す能力を求められる。できる限り、無駄や失敗
を避けることを学ぶ。その結果、試してみる力、創造性、好奇心を失っていく。」

最近、「失敗学」に関する本を5冊読む機会がありました。その本の中にも、日本の教育や社会において、失敗の価値
が見落とされている問題が指摘されていました。
一般社会のリーダーに対するアンケート結果をみても、人生の中で大きく飛躍できたのは「一皮むける
経験」が大変重要であったことがわかります。この「一皮むける経験」は、多くの場合、困難や失敗など
を通してのつらいものです。
聖書を読んでみますと、最初のアダムの失敗から始まって、アブラハム・・・ダビデ・・・ペテロ・・・黙示録に
ある7つの教会に至るまで、失敗のオンパレード。まさに人類の歴史は失敗の歴史と言っても過言でない
でしょう。聖書はそれほど、失敗の価値を認めていると言えます。

では、私たちの人生はどうでしょうか?笑って思い出せる失敗、赤面するような失敗、心の奥に沈めておきたい失敗など、
失敗は私たちの人生を形作る大切な要素です。聖書にもあります。

「私たちはみな、多くの点で失敗をするものです」(ヤコブ3:2)。

私たちの人生にとって、失敗はつきものです。失敗をごまかしたり、埋めてしまうのではなく、そこから積極的に学び
ましょう。なぜそうなったのか、どうしたらそれを避けることができるのか、どうしたらそれを成長に結びつけることが
できるのか・・・

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての
良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです」(Uテモテ3:16-17)。

今日も聖書を読みつつ、自分の言ったこと、やったことを振り返ってみましょう。失敗を活かすことこそ、成長の機会なのです。


☆牧師からのメッセージ(46)☆

私はいかにして牧師になったか

緑のまぶしい季節になりました。皆様いかがお過ごしでしょうか。
4月に新しい環境に入った方々も、ずいぶん慣れてきた頃でしょうか。
この道でよかったと納得している人、迷いを感じている人、じっくり将来のことを祈ってみようと
思っている人など、さまざまな5月の半ばを迎えておられることでしょう。
神様から与えられた生涯を大切にして、ゆっくり、じっくりと考えていただくためには、
「召し」のことを考える必要があると思います。
私はかつてこの紙面で「私はいかにして救われたか」を書きました。
今回は、その続きで「私はいかにして牧師になったか」を紹介します。
この文章は私が23歳の1983年12月12日に書いたものです。

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私は大学3年も終わりに近い1981年1月、キリストを救い主、人生の主として受け入れました。
救われた当初はうれしくてたまらず、自分の人生に本当の喜びが与えられたことに、感謝でいっぱいでした。
そしてしばらくして、こんなにすばらしいものなら一生をこれにかけてみようと、献身(牧師になること)を希望しました。
1982年3月、大学を卒業した私は、社会経験と学費をためる目的で就職しました。
社会生活は、学生生活とは大きく異なっていました。6日間忙しく働いて、言われたことを黙って忠実に
果たさねばなりません。このような環境の変化は、新卒の私にとって大きなフラストレーションになりました。
こういったことで大きな影響を受けているようでは、とても献身して牧師などできないと、ついに1982年末、
献身をあきらめました。
その後私は、大学院に進んでカウンセリングを学ぼうと思い、退職し、自分で勉強していました。
その中で、神は私を再び献身へと導いてくださったのです。その理由は三つ挙げられます。

1.カウンセリングの学びを通して
この学びをしているうちに、カウンセリングでは人生のさまざまな問題や心の問題を助けることはできますが、
魂の問題の根本的解決には至らないことを知りました。根本的解決は、やはり神様による救い以外にはないことを
確信しました。そしてどうせやるなら、魂の根源に関わり、根本的解決に携わりたいと思うようになりました。

2.フランシス・シェーファー著「それでは如何に生きるべきか」を通して
この本を読んで、自己存在の意味は、キリスト教によらなければ導き出せないことを確信しました。
自分が今ここに存在しているのは、神様の計画により、何らかの果たすべき使命があるためであり、
自分が存在していること自体が、神様の存在の揺るがし難い証拠であると思いました。
この本により、信仰の確信は深められ、揺るがなくなりました。

3.み言葉を通して
いつの間にか、ルカ9:23のみ言葉が私の内に住み着いていました。神様に従って行きたいとは言っても、
自分自身を省みた時、こんなに弱く、罪深い者で、一体何ができるのだろうかと疑わざるを得ません。
それにもかかわらず神は、「だれでも私について来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、
そして私について来なさい」とおっしゃっています。自分の力ではなく、神様が事を成してくださるのです。
ただ私は、日々自分のなすべきことを忠実になして行けばよいのだと思っています。
そして、地上の生涯を終える時には、「なすべきことをなしただけです」と、心から言えるようになりたいと思っています。

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この文章を書いてから23年たちました。牧師になってからもいろんなことがありましたが、この召しにお応えして
よかったと確信をもって言うことができます。
シカゴ郊外にあるウィロークリーク・コミュニティー教会の主任牧師であるビル・ハイベルズは、「召し」について
次のように語っています。

「牧師であろうと、一般信徒であろうと、イエス・キリストの名を負う者には全員、召しが与えられている、と考えます。
私たちはみな自己を放棄し、すべてを神様のものとしなければなりません。私たちはみな、『神様、私の使命は何ですか?
あなたは、どんな場所で私が奉仕することをお望みですか?神の国の壮大なドラマの中で、あなたは私にどんな役割を用意して
おられるのですか?』と尋ねなければなりません。・・・
聖なる神様から召しをいただくというのは、すばらしい特権であり、祝福です。人生の目的が定まり、私たちはさらに大きな
エネルギーと、さらに深い自信を持つことになります。自分は重要な働きをしているんだ、と認識することで、毎日の生活に
目的と意味が増します。しかし、このような恩恵を享受できるのも、私たちが自分に与えられた召しを確かなものとしている限り
においてのことなのです。」  (「勇気あるリーダーシップ」p.279-280)

私たちの人生には、さまざまな節目があります。
それぞれの節目でどのような選択をするか、その選択が生きていく方向を決めます。
ぜひあなたの一日一日も、あなたの人生も、神様の召しに応え、悔いのない、神様の祝福にあふれたものとなりますように、
お祈りしています。


☆牧師からのメッセージ(45)☆

新しい歩みを始められた方々へ

入学、入社された方々おめでとうございます。
桜の木も新緑が目立つようになり、いよいよ本格的な歩みを始めておられることでしょう。
4月は誰にとっても、新しい気分にされる時です。この機会に、時代がどのように動いているのかを確認しつつ、
私たちがこの先どのように歩んでいったらよいかを共に考えてみましょう。

新聞のコラムに「新世紀精神」と題して、次のように書かれていました。

「二十世紀は経済の世紀だった。@貧困からの脱出が世界規模で実現した。A政治や文化よりも経済成長を優先する
ことが普遍化した。B経済的成功が社会的価値の尺度となった。その前提として自由主義、自己中心主義がほとんど
無制限に正当化された。
しかし、二十世紀を振り返ると、人間と世界の本来のありようからかなりずれてきたのではないか。
@人間は経済的豊かさだけで幸せになる存在ではないことが改めてはっきりした。A政治・経済、文化が固有の働きを
弱めると多様性が損なわれ、一人ひとりが根づくべき土台も危うくなった。B「ホモ・エコノミクス」(人間は経済的
利害のみで働く)という人間観は人間をおとしめ、「志」や「愛する心」、「責任感」などを養う土壌を荒廃させた。
それはリーダー層の倫理観の低下、世代を問わぬ「いのち」の軽視にも表れている。
このままで二十一世紀を進められるわけがない。私たちはなにをビジョンとするかを明確にする必要がある。・・・」
(朝日「経済気象台」2001.1.9)

最近の日本では、「下流社会」という言葉が流行語になり、「格差」が主要な争点になってきています。
確かに格差は少ないに越したことはないし、私たちの生活と経済は切り離すことはできません。けれども、本当の幸せ、
豊かさは経済的指標だけでは計れないものです。経済よりも大切なものがあることに、目を向ける必要があるのでは
ないでしょうか。

若い方々、そしてこれからの生き方を祈っておられる方々、神様はあなたを何のために地上に存在させているのでしょうか?
三浦綾子さんは次のように語っています。

「使命は命を使うと書くでしょう。私は小説を書くことが神様から授かった私の使命だと思っています。一冊書き終えると
へとへとに疲れて、あぁ、命を使ったなぁと思います。でもこれが私の使命ですから書き続けます。」

イエス様はあなたに語っておられます。

「あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。
いや、一つだけです」(ルカ10:41-42)。

この世の価値観、欲望の中にあっても、いつも神様に目をとめ、この世になきものを求めていきましょう。
命の限り、信仰者としての使命の喜びのうちに歩みましょう。

☆牧師からのメッセージ(44)☆

あなたもナルニア国にようこそ!

「誕生から55年、映像化不可能といわれたC.S.ルイスの英国ファンタジーの至宝を、ディズニーがついに完全映画化!・・・ 
第二次世界大戦下のイギリス――ペベンシー家の4人の子どもたちは、疎開先の屋敷の空き部屋で大きな"衣装だんす"を
見つける。その扉の向こうでは、あらゆる想像を超えた別世界・ナルニア国が4人を待っていた・・・。誰もが見たかった、
誰もが見たことのない世界へ――2555年の時をつづる、壮大な物語の<第1章>が始まる。」(映画チラシより)

このたび、全世界で1億冊以上出版されているという「ナルニア国物語」が映画化されました。作者のC.S.ルイスは、
子どもの頃、学校がきらいで本ばかり読んでいたそうです。後にオックスフォード大学で教えていた時、指輪物語で有名な
トールキンと友達になりました。
ルイスとトールキンはどちらも、ファンタジー文学を通してすばらしい信仰の世界を描いています。

かつて偉大な王アスランによって創造された美しいナルニア国は、今や冷酷な白い魔女の支配下にあって、春の来ない
100年の冬に閉ざされていました。白い魔女は一度食べるとそれがほしくて仕方がなくなる食べ物をくれます。しかし、
それは食べても食べても決して満たされることのない食べ物でした。私たちに誘惑の恐ろしさを教えてくれます。
アスランは裏切り者のエドマンドの身代わりになって命を捨てます。魔女の策略にまんまと屈したかに見えるその時、
アスランは復活して、正義の軍を率い、勝利へと導くのです。この作品は、「指輪物語」と「パッション」の両方の感動を
味わえます。

イエス・キリストを表すアスランが自分を犠牲にして救ってくれる。
いつも共にいて悪と戦って勝利へと導いてくれる。
勇気を与えてくれる物語です。

4人の子どもたちは壮大な冒険をした後、再び同じ衣装ダンスから自分たちの世界に戻ってきてしまいました。
全く変わらない世界。しかし、子どもたちはもはや以前と同じではありませんでした。勇気と正義と愛とを身に着けて
成長していたのです。私たちも変わらない状況に、いら立ちを覚えることがあるかも知れません。しかし、もう同じ私たち
ではありません。力強い神様が共にいてくださるのですから。

イザヤ41:10「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、
あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」

子どもも大人も楽しめるファンタジー超大作。映画を先に見るか、本を先に読むか。
私は本を先に読んで、大変勇気づけられました。
どちらを先にしたとしても、神様のすばらしさを教えられ、勇気が湧いてくることまちがいなしです!

☆牧師からのメッセージ(43)☆

純愛がここに

「冬のソナタ」、「世界の中心で、愛をさけぶ」、「今、会いにゆきます」、「博士の愛した数式」、「タイタニック」
・・・これらに共通しているものは何でしょうか?純愛です。

これらの純愛ものは、どうして多くの人々の心を捕らえて離さないのでしょうか。NHKは「冬ソナ」の魅力をこう語っています。
「人が人を愛したり、思いやる、その『情』を熱くピュアに表現している。それに加えて、清潔感と透明感、奥ゆかしい上品さ
があり、年代を超えて日本人に受けた。」(以下、引用はアエラ2004.4.5より)

純愛ものに共通する要素の一つは「一途な想い」です。「必ずしも成就するものではなくて、その人を想うということ。
その気持ちが純愛」(中江裕司さん)、「見返りを求めないで相手を想えること」(ウエズキヨサクさん)、「そのためになら、たとえ全てを
失ってもかまわない至高のものが純愛」(諸富祥彦さん)。

純愛が求められる理由は何でしょうか。「現代社会は、ありのままの自分を隠し、刺激に満足を求める人が多い。
こうした関係は不安定で落下感に満ちている。しかし一方で、人はありのままのお互いを受け入れあう全人格的な触れ合い、
穏やかな関係に憧れている。その願望を純愛作品の主人公と一体化させているのでしょう」(医学博士の海原純子さん)。
「現実的に信じられるものが少なくなってきている世の中。『信じる』という行為自体への憧れが、"純愛もの"に形を借りて
出ているような気がします」(博報堂研究員の中村恭子さん)。

そして評論家の宮崎哲弥さんは、純愛ものは宗教の代替物だと言います。
「人々は『この世』的なものを超えたことに触れたいんですが、神や仏に帰依したいと思っても実際の宗教団体は『この世』に
まみれて魅力がない。というわけで『この世』にありそうで、それでいて『この世』を超えている"純愛"に向かうわけです。
"純愛"を最終的に担保するのが往々にして"死"だというのが象徴的でしょう。」

純愛を求める気持ちは、美しいものです。誰の心にもあります。そして純愛の原点はここにあります。

「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに
示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を
遣わされました。ここに愛があるのです」(第1ヨハネ4:9-10)。

実は、本当の純愛は聖書の中に見られるのです。イエス様の生き方に余すところなく現されました。自己犠牲、無私の愛、
絶対の信頼、全人格的な触れ合い・・・・。私たちは不完全ではあっても、このお方と出会って少しでも「純愛」を現せたらと
思います。テレビや小説で鑑賞するだけでなく、本当の純愛に生きてみませんか。

☆牧師からのメッセージ(42)☆

新しい心を

2006年、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。
今年、神様からの祝福の言葉として祈りのうちに選んだのは、エゼキエル書36章26節です。

「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。
わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」

このみ言葉を受け取るために、私たちはどんな備えをしたらよいのでしょうか。
新しい年、私たちが新しい歩みを始めるにあたって、それを妨げるものがいろいろあります。その中で最大のものが、
過去の中に生きようとすることでしょう。私たちは2度と帰ってこない日々の思い出の中で生きられたらと思う時があるかも
しれません。確証のない未来のあやふやさに立ち向かうよりも、過去の思い出の中にいるほうが居心地がいいでしょう。
あるいは、過去が私たちの思いを縛っていることもあります。過去は私たちを押さえ込み、離そうとしないのです。
(参考:「荒野の泉」)

私たちが新しい年に、神様の祝福として新しい心をいただくためには、どうしても必要なことがあります。
それは私たちがまず間違ったこと、改めたほうがよい古いことに、「否」を言う必要があるのです。しかし、多くの方が
経験があるように、「否」を言うことは、なんと勇気のいることでしょうか。ある時は、自分の慣れ親しんだ習慣に
「否」と言い、また別の時には、自分自身に対して「否」と言わなければならないのです。神様から最大限の勇気を
いただかないと、「否」とは言えないことが多いのです。

私たちの心の内にあるものを見分け、「否」と言うことから、新しいものが生まれます。新しい心が始まります。
新しい心は、自然な成り行きによって自動的に始まるのではありません。新しい心は、自分の心の内の古きものに終止符
を打って、始末する。処理することから始まります。(参考:「御言葉はわが足のともしび」)

あなたは新しい心を受け取るにあたって、過去の何に「否」と言いますか。
何を手放しますか。どんな繰り返しをやめますか。間違ったこと、改めたほうがよい古いことに「否」と宣言し、
新しい心を受け取る備えと祈りを持って、新しい年を始めましょう。
2006年、あなたは神様と人の前にどのように歩みますか?

「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、
神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、
完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」ローマ12:1-2

☆牧師からのメッセージ(41)☆

クリスマスにもらった神様からの贈り物―光と出会う―

クリスマスと言えば、どんな物・事を思い浮かべますか?たとえば、プレゼント、サンタクロース、
ごちそう、ケーキなどなど。「クリスマスといえば教会!」と言ってくださる方がいると、うれしいのですが。
最近は、クリスマスシーズンになると、いろんな所でイルミネーションが見られるようになりました。
クリスマスは本来、いのちの光の到来を告げるものですから、クリスマスに光の輝きはぴったりです。

最近、子どもたちの命が奪われる痛ましい事件が、相次いで起こりました。本当に心が痛みます。
祈らざるを得ない思いです。人の心は、これからどうなっていくのでしょうか?今もっとも必要とされるのは、
目に見える豊かさではなくて、私たちの心の闇に光が当てられ、私たちの魂が輝いて育まれていくことでは
ないでしょうか。大人も子どもも、親も子も、夫も妻も。

神と人に愛され、神と人を愛することの幸いによって輝けたら、どんなにすばらしいでしょう。そんな生きるため
の本当の光に出会えたら・・・こんな思いを胸に、クリスマスの光の数々を見上げています。

キリスト教教育をしている幼稚園で、こんなお話がされました。

「子どもの発見」をしたと言われるルソー。彼の「エミール」と題する作品には、「私たちはいわば2回この世
に生まれる。1回目は存在するために、2回目は生きるために」とあります。それは生まれるというよりは、
魂が新しく生まれ変わることを意味しているようです。子どもたちに3つの「光」について話しました。

1番目の光は、それだけでは光ることはできないが、光があるとそれを反射する光。
2番目の光は、懐中電灯のように雨の中でも消えない元気な光。
3番目の光は、ローソクの光。ちょっとした風で消えてしまう弱々しい光です。
神様の光は、3番目にローソクの光に似ています。輝けば輝くほどに、ご自分は小さくなっていく。
ご自身を犠牲にしてまで、周りを明るく輝かせることが、大きな喜びであるのです。

クリスマスの日、イエス様はこの世に光として来てくださいました。闇を照らし、いのちの光として輝くために。
私たちを罪より救うために。「光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した」(ヨハネ3:19)と聖書に
あります。大人たちがまずその事に気づいて、「光」との出会いを生み出す役割を果たしたいと願っています。

 クリスマス それは栄光と平和の日
暗闇におおわれた夜 私たちは光を待ち望む 地上が照らされるように
暗闇におおわれた夜 私たちは愛を待ち望む 世があたためられるように
暗闇におおわれた夜 私たちは父なる神を待ち望む 私たちが悪から救われるように
暗闇におおわれた夜 私たちは憐れみを待ち望む 人となられた神を待ち望む
            (イルマ・ノーバ「クリスマスのよろこび」より)



☆牧師からのメッセージ(39)☆

2005松原湖研修会の恵み

秋らしいさわやかな天候が続いています。皆様、いかがお過ごしでしょうか。
私は10月3日(月)〜6日(木)、松原湖バイブルキャンプ場でおこなわれた研修会に参加してきました。
今回は、その恵みを分かち合いたいと思います。

最初の1泊2日は、自由参加の伝道懇談会でした。講師は、インマヌエル教団の竿代照夫師でした。
竿代師は、18年間ケニアの宣教師として奉仕され、私がトリニティーで学んでいた時、よき交わりを
与えられた信仰の先輩です。
竿代師から一番教えられたことは、ご聖霊の導きに柔軟に従いながら、人間としてベストを尽くすことです。
このどちらに偏っても、私たちの信仰の歩みは健全なものになりません。ご聖霊の導きだけを求め、自分の努力を
放棄することは、棚からぼた餅式の怠惰な生き方になります。その逆に、人間的にだけ走って、神様の導きを求めない
ことは、自分の力と知恵に頼る非信仰的な生き方になります。私たちは、ご聖霊の導きを真剣に祈り求めつつ、
ベストの努力をささげていきましょう。

「私(パウロ)が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です」(1コリント3:6)。

続く2泊3日は松原湖研修会でした。そこで一番教えられたことは、過去と未来を見通して、「現在」を考える
ことの重要性です。

「そこでサムエルは一つの石を取り、それをミツパとシェンの間に置き、それにエベン・エゼル(助けの石)という名をつけ、
『ここまで主が私たちを助けてくださった』と言った」(1サムエル7:12)。

私たちは今までどのように歩んで来たでしょうか。実にいろいろなことがあったでしょう。楽しいこともつらいことも、
すべてのことを通して神様はあなたを導き、守ってきてくださいました。
では、あなたの将来は何が待っているでしょうか。未来においても、今まで同様、神様の導きと守りが保証されています。
その安心感をいただきながら、自分の将来を考えてみましょう。5年後、10年後、15年後、20年後・・・あなたは
神様にどのように用いていただきたいですか?どんな夢、ビジョンがありますか?
では、そのビジョンを実現するためには、現在、何をすべきでしょうか?未来は現在の積み重ねです。あなたの「今」が、
あなたの「未来」を築きます。今まで(過去)と、将来のビジョン(未来)を見通して、現在の生き方をきちんと見つめましょう。

同盟教団は、機構改革の施行期間2年目です。現在、規則の変更を真剣に討議しています。ご聖霊に自由に
用いていただける教団として、そして個人として、最善の計画を考え、今の私がなすべきことに忠実に専念していきましょう。


☆牧師からのメッセージ(38)☆

立ち直ったら −イエス様があなたに残したメッセージ ー

のぼりと教会では、9月は「人生の先輩を囲む会」があります。人生経験の長い方々を囲んでお話をうかがい、
今までの神様の導きを感謝し今後の守りを祈ります。お一人ひとりの話をうかがうと、どなたもいろいろな苦労をされて
きたことがわかります。

私たちの人生で出会う試練には、必ず意味といやしがあり、祝福となります。
イエス様は十字架につけられる前に、ペテロにおっしゃいました。
「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました」(ルカ22:31)
ここに試練の一つの目的があります。それは信仰が本当に生きたものであるかどうかをためすことです。

私たちの人生には多かれ少なかれ、こんなフルイにかけられることが必ずあります。フルイにかけられて、捨てるべきものと
本当に大切なものとをより分けなければならない時があります。その時、あなたは何を捨て何を選びとってきたでしょうか。
しかし、幸いなことにイエス様はこうおっしゃっています。
32節前半「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました」(ルカ22:32前半)
イエス様は、私の信仰がなくならないように、あらかじめ祈っていてくださるお方なのです。私たちは試練に遭った時、
一人ぼっちのような気がするかもしれません。誰もわかってくれない、苦しんでいるのは自分だけ、そんな気になるものです。
しかし、私たちは試練に一人で立ち向かうのではありません。私の側にはイエス様がいてくださるのです。
これ以上、強い見方はいません。

しかし、イエス様が私の信仰がなくならないように祈っていてくださることは、何でもずっとうまくいくことが約束されて
いるわけではありません。
「だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32後半)
「立ち直ったら」ということから、1度は倒れること、立ち直るまでは何もできないかもしれないこと、むしろ助けて
もらうことになるかもしれないという意味が含まれています。しかし、あせらなくてよいのです。立ち直ってからでいいのです。
神様はあせらせたり、尻をたたいたり、安易な慰めを与えるのではなく、その人にとって本当に必要な「立ち直らせ」
をしてくださるのです。倒れている時に受けた愛と恵みで充分に元気になったら、今度はあなたが力づける人になれるのです。

もしペテロが失敗しなかったらどうなっていたでしょうか。本当の信仰は育ったでしょうか。神様に信頼するよりも、
ますます自分の力に頼る人になっていなかったでしょうか。
私自身にとっても、牧師になって2年で燃え尽きた経験は、当時はとてもつらいものでした。もう牧師はできないと
思っても、将来どうするのか考える元気さえありませんでした。しかし、こういった経験も今になってはなくてはならない
ものだったと感謝しています。自分に頼る思いが砕かれ、神様の愛と恵みの豊かさを知ったのです。
主イエスを信じる者にとって、つまずきや欠け、弱さ、失敗、挫折が決して終わりではありません。イエス様は、
ペテロがつまずく前から祈って、回復のための準備をしておいてくださいました。そのことは私たちに対する神様の深い憐れみ
を示しています。神様は私たちに、赦しと回復の愛を注いでいてくださいます。このことを決して忘れないでいましょう。

つまづいたり ころんだり したおかげで
物事を深く考えるようになりました。
あやまちや失敗を繰り返したおかげで 少しずつだが
人のやることを 暖かい眼でみられるようになりました。
何回も追いつめられたおかげで 人間としての 自分の弱さと 
だらしなさをいやというほど知りました。
だまされたり 裏切られたり したおかげで 
馬鹿正直で親切な人間の暖かさも知りました。
(「つまづいたおかげで」 相田みつを「人間だもの」より)

聖書に示された神様は、@私の苦しみ、試練が来る前から、私のために祈っていてくださる神、A苦しみ、試練の
まっただ中では、私といっしょに痛み苦しんでくださる神、B私の苦しみや試練の解決、回復のために準備さえもしていて
くださるお方です。
私たちの原点は、イエス様に罪赦された者であるということです。私たちは自分の弱さをよく自覚し、いつも神様が
立ち直る希望と力を与えてくださることを確信して歩んでいきましょう。神様に謙遜に信頼して従っていきましょう。
そういう歩みこそが、神様に喜ばれ、用いられる歩みになるのです。

「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、
兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)。


☆牧師からのメッセージ(37)☆

純粋な信仰の美しさ

のぼりと教会では、夏の季節は特別にサマーシリーズのメッセージをおこなっています。
今年は、「賛美の心」について共に学んでいます。その中で、ブルックリン・タバナクル・クワイヤーから教えられました。
そのクワイヤーの一部が7月に初来日し、のぼりと教会からも12名がコンサートに参加しました。

「これは本物だ!」というのが、私がコンサートに参加した感想です。いくつもの日本のゴスペルクワイヤーを
見てきましたが、ふりはゴスペルでも、魂に届くものが今一つ足りませんでした。
しかし、ブルックリン・タバナクル・シンガーズの場合は、本物にしかない「純粋さ」を感じることができました。

指揮者のキャロルさんが語っていました。「ゴスペルというのは音楽の一ジャンルではありません。リアリティーなのです。」
ゴスペルとは福音のことです。彼らは、イエス様と出会って、人生が全く新しく変えられたそのすばらしさを魂から
賛美しているのです。ジム・シンバラ牧師は、「私たちが来日した目的は、音楽を聞かせることではありません。
福音を伝えるためです」と語り、会場に詰め掛けた人々に、はっきりとイエス様の福音を語り、祈りに導きました。
「今日、皆さんが来た時と同じままで帰るのなら、私たちは何のために日本に来たのかわかりません。イエス様と出会って、
人生が変えられて帰ってください。」賛美の真髄は、生きた信仰の表れです。

私は彼らの賛美を聞きながら、自分たちには、あれほどの信仰の純粋さがあるだろうかと自問していました。
純粋さがなければ、人に伝わりません。純粋さがなければ、人は感動しません。私たちはそういった純粋な信仰の歩み
をしているでしょうか?

ブルックリン・タバナクル・クワイヤーの信仰の純粋さの秘密は、二つあるように思います。一つは、明確な回心です。
彼らは自分の罪深さをよく知っていて、その罪がイエス様の十字架によって赦されたことを心から確信しているのです。
ですから、あれほどの喜び、感謝があふれ出てくるのです。

もう一つは、彼らが困難な中で信仰を育んできたことです。もし彼らが、豊かな中流階級以上の人々であったら、
このような賛美は決して生まれなかったでしょう。彼らは、試練や困難によって信仰が精錬され、他のものに頼る
という不純物が取り除かれ、純粋さを保っているのです。頼るものは神様しかない、このお方がいてくださればすべて
大丈夫という信仰です。あなたもピュアな(純粋な)信仰の美しさを目指しませんか?

「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわして
くださるのです。」2歴代誌16:9前半

☆牧師からのメッセージ(36)☆

人生のコーチ―1年の折り返し地点に立って―

今年も、日本の社会では大企業や官僚の不正事件が続いています。おそらく、不正をしたどの人も学校の成績は
優秀だったのでしょう。勉強の優秀さは、生きる正しさと必ずしも結びつかないことがよくわかります。
では、どうすれば私たちは正しい歩みをすることができるのでしょうか。そのために必要なのは、コーチです。
いつも付きそってくれて、適切なアドヴァイスを与えてくれる人生のコーチが必要なのです。

アメリカン・フットボールの世界には、30年以上に渡って通算325勝という史上最多勝利をおさめたドン・シューラと
いう有名なコーチがいます。何が彼の勝利の秘訣だったのでしょうか。シューラは次のように語っています。

「両親はどちらも頑固者で、道徳に厳しかった。宗教的な事柄に関する限り、私の考えのもとになっているのは、
神を敬い、曲がったことはするなという親の教えである。礼拝に通い、神の教えに耳を傾けることは、私にとって、
単なる習慣ではない。甲高い笛の音が鳴り響き、肉体がぶつかり合う世界で消耗してしまった時、それは私にとって
とても大事なものとなる。ゲームがある日は、心を落ち着かせる手段になる。私にとって、神に感謝をささげ、神の守り
を祈って1日をスタートさせるのは、重要な日課である。ひざまずき、助けを求め、答えに耳を傾けるのはいいことだ。
最も権威のある存在が上司だったり会社だったり、あるいはもっと悪いことに自分自身だったりすれば、あなたはあまり
いいコーチになれないだろう。」(「スーパー・リーダー」より一部要約)

シューラの言葉を借りれば、現在の日本で不正がなくならない理由は、自分自身や上司や会社が最も権威のある
存在になっているからです。善悪の最終的な基準が、自分自身にあるなら、一体どうなるでしょうか。自分の好き勝手
にすればよいのです。最高の権威が、上司や会社であったらどうなるでしょうか。上司や会社の言いなりになるしかない
のです。当然、不正も起こるわけです。

シューラが偉大なコーチであり得たのは、彼がさらに偉大な人生のコーチを持っていたからでした。そのお方は、聖書の
神様です。

「ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも
左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。」ヨシュア1:7

「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから『これが道だ。これに歩め。』と言うことばを聞く。」イザヤ30:21

1年の折り返しにあたって、神様のアドヴァイスに耳を傾け、修正と導きを求めましょう。
本当の人生のコーチである神様に従うことこそ、間違いのない祝福の道です。

☆牧師からのメッセージ(35)☆

雨の日に

ある雨あがりの午後、近くの小学校の横の通路を歩いていました。塀の上を一匹のカタツムリがゆっくりと動いています。
私はその殻をツンツンと指でつついてみました。しかし、ゼンゼン無視。「これが本当のデンデンムシか」と思ったものです。

何人もの日本人が、あいさつ代わりに「今日は天気が悪いね」と話していました。その時、ベトナムからの留学生が、
「どうして雨の日は天気が悪いの?雨は稲にとってなくてはならないものだよ。ベトナムでは雨の日はいい日なんだ。」と
言いました。アメリカにいた時も、人々は少々の雨ではカサをささないので、びっくりしました。雨が降り始めて、走り出した
のは私だけということもありました。

聖書の背景になったパレスチナ地方では、南部へ行くほど降水量は減り、水の確保は生死に関わることでした。
夏は乾季でほとんど雨が降ることはなく、9月半ばから始まる冬季に雨が降りました。農作物の出来、不出来は、
雨に大きく依存していました。ですから、聖書の中には、雨は天からの恵みとして表現されています。

「主は、その恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。」
(申命記28:12)

また、雨は神様の愛と恵みが、すべての人に注がれていることを表しています。

「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」
(マタイ5:45)
 
日本では雨がよく降るので、慣れてしまって、あまり恵みとして受けとることはないかもしれません。むしろ、雨はできれば
避けたいもの、濡れたくないもの、ダムの上だけで降ってほしいものとして考えられているかもしれません。
私たちの人生が晴ればかりでないことは、誰もが経験しているでしょう。しとしと降る雨もあれば、ビシャビシャ降る雨、
いろんな雨の季節もあるものです。そんな雨を嫌うことなく、神様からの恵みとしてとらえることができたら、人生から
いやな季節が減り、さらに豊かな恵みを感謝して生きられることでしょう。雨の日にしか見えないことがあります。
雨の中でしか発見できない恵みが必ずあります。(雨=あ恵)

「神よ。あなたは豊かな雨を注ぎ、疲れきったあなたのゆずりの地をしっかりと立てられました。」
(詩篇68:9)

晴れの日ばかりでは、私たちの魂は乾いてしまいます。疲れきった私たちの心を、神様の雨によって潤していただきましょう。

「主よ このところに 雨を注いで 我らの賛美の中に 住まわれる主よ
  天の窓を開いて 雨を注いで 乾ききった心を 潤してください 
この時をどれほど 待ち望んだだろう 
後の雨を 後の雨を 主よ 降らせて」
レインボーミュージックより
☆牧師からのメッセージ(34)☆

大きな絵を描けていますか

皆さんは、友人と会った時、どんなあいさつをしますか?「こんにちは」、「久しぶり」、「元気ですか」。
そしてもう一つよく口にするあいさつが、「忙しいですか」ではないでしょうか。「忙しいですか」と尋ねて、
「忙しいです」という答えをもらうと、多くの場合、仕事が順調にいっていると感じます。
私がアメリカで驚いたことは、アメリカ人に「忙しいですか」と尋ねると、けげんな顔をされるのです。
それで私は、これは日本特有のあいさつだと知りました。

「忙しさ」の危険性はいろいろありますが、その中の一つは、忙しくしていると「ちゃんとやっている」と勘違い
してしまうことです。私たちは自分の人生に希望を持っています。こんな人生を送りたい、こんなことをやってみたい、
さまざまな希望があります。ところが、実際の生活は、朝起きると同時に、あれをしなくてはいけない、
これをしなくてはいけない、あの人と会って、これをして・・・という感じで一日が終わることが多いのです。
そんな忙しい毎日を送っていると、いつの間にか、神様から与えられた人生でなすべき事を忘れてしまっている
ことが多いのではないでしょうか。

ハーバード・ビジネススクール教授のジョン・P・コッターは、興味深い調査結果を報告しています。
多忙な企業の経営者たちがうまくいっているのは、大きな絵が描けているからだと言うのです。
ここで言う「大きな絵」とは、組織のビジョン、理想の姿のことです。私たちは忙しいと、大きな絵なんて
描いていられないよ、人生の意味なんて考えていられないよ、背に腹は変えられないよ、と思ってしまいがちです。
しかし、事実は逆です。大きな絵が描けていると忙しくても大丈夫なのです。

私たちの生活は、今後ますます忙しくなっていく可能性があります。そして、ますます活動は断片化していきます。
細切れの活動に追われて人生を終えた、なんてことにならないようにしたいものです。そのためには、いつも大きな絵
を持っていましょう。神様の中に自分の人生を置きましょう。そうすれば、忙しい中でも方向を見失うことがありません。
今やっていることが、大きな絵の中のどこに位置するかがわかるからです。

「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」箴言14:12
「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。」箴言19:21

あなたの心の内に、神様によって大きな絵を描いていただきましょう。神様があなたの人生に期待されていること、
あなたの命の使い方をいつも見失うことなく、忙しさに惑わされることなく、目標に向かって進んで行きましょう。


☆牧師からのメッセージ(33)☆

「あなたは、まちがいなく、私の夢です」

新入生の方々、進級された方々、就職された方々にとっては、新しい歩みが始まりましたね。
期待と不安が入り混じったスタートを迎えておられることでしょう。4月は、誰にとっても新しい気持ちになる月です。
私たちが前に向かって進んでいく時、誰もが必要としている一つの語りかけに耳を傾けたいと思います。

最近すっかり有名になった高校の一つが、北海道にある北星余市高校というミッションスクールです。
この高校は、日本中から中退者を受け入れています。大きな挫折、家庭の問題、いじめ、心の傷、暴力と
荒れ果てた生活、タバコ、酒、薬、ヤクザの入り口に立ったような中退者を受け入れていました。

この制度の第1期生で、一番の不良だったのが義家弘介さんでした。暴力、窃盗を繰り返す札付きのワルでした。
殺人以外のことはほぼやり尽したと、本人が語っています。しかし、担任の安達先生は、どんなに裏切られても
裏切られても信じ続けます。バイク事故で命を失いそうになった義家さんに、安達先生は言いました。
「あなたは、まちがいなく、私の夢です。」

どうして、この若者を信じ続けることができたのでしょうか。どうして、この青年の内に夢を持つことができたのでしょうか。
それは、キリストの愛です。

イエス様は今もあなたに語っておられます。
「あなたは、まちがいなく私の夢です。私は自分の命を十字架の上で捨ててまで、あなたを愛しました。それは、あなたを
罪より救い出すためです。あなたに本当の人生を生きてほしいからです。生きがいがあり、祝福と平安ある生涯を
送ってほしいからです。あなたは、私の夢。私はあたなを信じ続けます。」

義家さんは、安達先生のこの愛に触れた時、変わりました。人の努力や愛情を超えたキリストの愛。
この愛に触れられて変わらない人はいません。イエス様はいつもあなたに語っておられます。
「あなたは、まちがいなく私の夢です。」こうおっしゃってくださる神様と共に、新しい歩みを力強く踏み出して行きましょう。

「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、
わたしの義の右の手で、あなたを守る。」
                          
イザヤ41:10
 
※ 義家先生は、今年の4月より横浜市教育委員会で、教師のケアを担当しています。

☆牧師からのメッセージ(32)☆

復活の主によって生かされる喜び

イースターおめでとうございます。すがすがしい早春の朝、イエス様が復活されたことをお祝いできることは、
何という喜びでしょうか。
今、私が生きています。あなたが生きています。
目的を持って、大切な意味を与えられて生かされています。それはなぜでしょうか。イエス様がよみがえられたからです。

「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ4:25)

イースターにあたり、二つのことを考えました。

1.教団総会で感じたこと
3月16日(水)〜18日(金)、同盟教団の総会に参加しました。このところ教団総会でも松原湖研修会でも、宣教区の話し合い
でも、ずっと機構改革のことばかりで、正直言って疲れ気味でした。けれど、よく考えてみると、「これもイエス様が生きて
いるからこんな努力をしているんだな」と思えるようになりました。
どうしたら、よりよくイエス様に仕えることができるだろうか。どうしたら、同盟教団を通して、イエス様のみ業がさらに
前進するだろうか、そういった問題意識の一つが、機構改革になって進んでいると思います。私も東京宣教区の書記として、
多くの事務処理に時間を使っています。イエス様のみ心がなされ、み業が前進するようにお祈りください。

2.45歳のイースターに思うこと
私ごとになりますが、3月14日で、45歳になりました。子どもたちから見れば、白髪混じりのおじさん。年配の方々から見れば、
まだまだ青二才というところでしょうか。45歳になって思うことは、「人生の後半に入った」という確かな感覚です。
いくつまで生かされるかわかりませんが、まず間違いなく人生の後半に入りました。そして、人生の残り時間を考えるように
なりました。健康で生かされていても、元気に奉仕できるのは、あと15〜20年でしょう。その間に、神様にどんな貢献ができる
のかが問われます。
若かった頃は、「あれもやりたい、これもやりたい」と思っていました。そして、それが実際にできるような漠然とした期待
を持っていました。ところが、実際に45年間生かされて感じるのは、思ったようにはできないという現実です。ますます、
「フォーカス」(焦点)を大切にしていきたいと思っています。他の人がした方が適していること、自分にしかできないこと
を区別し、お任せできることは任せ、自分にしかできないこと、自分が貢献できることに「フォーカス」していきたいと考えて
います。
今年のイースター、あなたは何に焦点をしぼって生涯をすごしていくのか、ぜひ神様と祈りつつ考えてみてください。
私たち一人ひとり、復活された主イエスによって与えられた命です。かけがえのない生涯を、主イエスと共に喜びに満たされて
歩んでいきましょう。

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、
キリストとともに葬られたのです。
それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、
私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、
キリストの死と同じようになっているのなら、
必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、
罪のからだが滅びて、
私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、
私たちは知っています。
死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、
キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
ローマ人への手紙6章4〜8節

「イースターの祈り」
永遠にいまして、全能なる神よ
今日のこの日、あなたはみ子を通して死に勝たれ
私たちに永遠の命にいたる道を開いてくださいました。
それゆえ、私たちは、喜びのうちに主の復活を祝います。
聖霊によって私たちを新しくしてください。
私たちもまた立ち上がって、命の光の中を歩むことができますように。
イエス・キリストのみ名によってお願いします。


☆牧師からのメッセージ(31)☆

どうやって進むべき道を選びますか

「聖書に『あなたはこの人と結婚しなさい。この仕事をしなさい』と書いてあったらどんなに簡単だろう。」
そんなことを思ったことはないでしょうか。私たちの人生で正しく進路を選ぶことは大変重要であり、またきわめて
むずかしいことでもあります。私たちはどうやって進むべき道を選んだらよいのか、ごいっしょに考えてみましょう。
               (参考:山崎龍一著「クリスチャンの職業選択」)

1.「自分」から出発するのではなく、「神」から出発する
世間一般では、自分のやりたいことをするのが仕事であり、それができる所を選ぶことが就職活動と考えられています。
誰もが真っ先に「自分の一番やりたいこと・好きなことは何か」を考えます。
しかし、この考え方には大きな落とし穴があります。自分の一番やりたいことは何なのかよくわからないのです。
就職してみても、それが本当に自分のやりたいこと・好きなことなのか確信を持てません。転職を繰り返しても同じです。
生涯に渡ってずっと不完全燃焼な気持ちを抱えたまま過ごすことになりかねません。
その原因は、考えの始点を自分に置いているからです。私たちは人生の経験を積むにつれて、自分がいかに不確かで、
当てにならないかを知らされていきます。
正しいスタートは、神様から始めることです。聖書が教えているのは、私たちが働くのは、神様が創造された世界を正しく
管理するためです(創世記2:15)。罪によってゆがめられた創造の秩序を回復することです。私たち一人ひとりにその使命が
与えられています。「自分」のやりたいことから出発するのではなく、「神」が私に何をすることを望んでおられるかから出発
するのです。
クリスチャンであっても、「みこころ」(神様の意思)を求めると言いながら、結局は自分の願望を神様に認めてもらいたいだけ
という場合がよく見られます。まず、自分の思いを横に置いて、神様は自分に何を望んでおられるのか、自分は何のため
にこの地上に存在させられているのか、祈りつつよく考えることが大切です。

2.神のみこころは、楽な道とは限らない
多くのクリスチャンが誤解していることは、神様のみこころにかなった選択をすれば、悩みも苦しみもない一番楽な歩みが
できると考えることです。そして、現実に苦しいことがあると、どこかで「神のみこころ」でない選択をしたと思うのです。
  確かに、神のみこころに反した選択をしたために、(たとえば罪を犯して)、苦しみの中を通る結果になる場合はあります。
しかし、神様の真理として覚えておくべきことは、神様のみこころは楽な道とは限らないことです。信仰の父と呼ばれる
アブラハムも、楽な人生を歩んだわけではありません。
「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです」
(ローマ5:3-4)。
苦難を通らなければ生まれないものがたくさんあります。
神様はご自分の愛する者に、あえて患難を与えられることがあります。
神様のみこころは、選択の瞬間だけではなく、選択した後の過程すべてに働いています。この仕事かあの仕事か、
この会社かあの会社か、という選択以上に、与えられた場で信仰者としてどう生きるか、どういう実を結ぶか、その過程
すべてが重要であることを忘れてはなりません。どの人と結婚するかということも大切ですが、結婚した人とどう生きるか
ということの方がさらに大切なのです。神様があなたに託されたこと(あなたの使命)に対しては、その場に忍耐をもって
とどまり、神の愛と神の正しさを実践していくことが求められているのです。

3.クリスチャンとして何が貢献できるかを考える
一般的には、進路選択にあたって、自分のやりたいことや、企業の名前、待遇などを第一に考えます。しかし、
クリスチャンは、その仕事や企業の理念・目的を調べ、そこに全存在を用いて貢献できる可能性を考えます。
神様が与えてくださっている霊の賜物は、自己実現のためにあるのではありません。「それぞれが賜物を受けている
のですから、神の恵みの良き管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい」(1ペテロ4:10)。
賜物は互いに仕え合うため、他者を生かし、神の栄光を現すために与えられているのです。
どんな時にも、どんな所でも、神様から自分が生かされている目的を見失わないようにしましょう。
あなたが置かれている場には、不正があるかもしれません。ですからあなたはその場が腐ってしまわないように「地の塩」
として遣わされているのではないでしょうか。あなたがいる場には希望がないかもしれません。
進むべき方向が見えていないかもしれません。だからあなたは「世の光」として遣わされているのではないでしょうか。
クリスチャンの倫理観と責任感は、世界中で評価されています。学校や職場にクリスチャンは自分ひとりしかいないと、
消極的になる必要はありません。世界を創造し、あなたを創造し、愛し、今も支えておられるお方があなたと共に
おられるのです。そして、いつでもあなたのために祈り、あなたが帰って来て疲れをいやし、力を受け、霊的に養われ、
再び遣わされていくために充電できる教会があるのです。

<牧師のためにお祈りください>
神様からの召しに応えて、何をし、何をしないか、誰もが祈りをもって考え、決断していくことです。
私自身ものぼりと教会の牧会以外に以下のことを受け取っています。単に個人の活動というのではなく、
教会の一員としての牧師として、これらのことを知っていただいて、祈っていただきたいと思いました。
皆さんもご自分の召しについて教えてください。
互いにそのことを知り、祈りに覚え、励まし合える教会でありたいと思っています。

1.神学校教育
 千葉県にあります「東京キリスト神学校」で、キリスト教教育を担当しています。
いつも9〜12月にクラスを持っています。将来、牧師になろうとする者たち10名くらいが参加します。
神学校のカリキュラムの中で、教育に関するクラスはこのクラスだけなので、本当に不十分だと思っています。
それだけ責任が重いので、一生懸命に担当しています。教えるためには準備が必要です。絶えず必要な書物を探し、
読み、まとめておく必要があります。
日本の教会の将来は、神学校教育にかかっています。よい牧師が育たなければ、よい教会になりません。
ぜひ、神学校教育のことを覚えてお祈りください。

2.同盟教団教会教育部
現在、同盟教団教会教育部では2冊のテキストを発行しています。「聖書が教えている基本的なこと」(入門クラス用)
と「聖書が教えている教会生活」(洗礼準備用)です。私は教育部員として、この2冊の校正段階から関わりました。
今までの出版物は、発行してもなかなか使ってもらえない場合が多かったようですが、幸いにもこの2冊は好評で、
よく売れています。(改良の余地はたくさんありますが)
そして現在、進行しているのが3冊目の「聖書が教えている家庭・社会生活」(教会員のてびき)です。
私はこの中の結婚と家庭に関する章を担当します。限られたページ数の中に入れたいことは山ほどあり、大変苦労
しています。順調に行けば、年内に発行になります。用いていただけるよいテキストができるように、お祈りください。

3.東京宣教区CS(教会学校)教師研修会の準備委員
のぼりと教会がかつて所属していた東京西南ブロックは、教会学校のことに関して何もしませんでした。
しかし、旧東京西ブロックは毎年、CS教師研修会を開いてきました。この二つのブロックがいっしょになって東京宣教区
になり、私たちもCS教師研修会に参加できるようになりました。
                  準備委員は、国立キリスト教会の教育主事である本澤敬子先生と私です。東京宣教区は、およそ25教会・伝道所
があり、参加人数も多いので、どうしたら実質のあるCS教師研修会ができるのか、考え中です。
今年は10月10日(月・体育の日)の午後に研修会を予定しています。よき研修会ができますように、お祈りください。

4.日本教会教育者ネットワーク(JCENet)
今年の1月31日、神学校でキリスト教教育を担当している者たちの集まりがありました。
これは歴史上、初めてのことです。それくらいキリスト教教育の分野は、人目につかず、ばらばらでなされてきました。
この組織は、「日本教会教育者ネットワーク」(略称JCENet)と名づけられました。
今後、組織のあり方、活動内容などを話し合っていきます。
日本の教会のために、この組織が用いられるようにお祈りください。

☆牧師からのメッセージ(30)☆

み言葉によって生きるなら、きっと・・・

新年、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。
今年の神様の祝福の言葉として1ペテロ2:2を選びました。

「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」

この聖書箇所から3つのことを教えられます。

1.みことばを慕い求める
息子のノブは、2000年に2000gの未熟児で生まれましたが、とにかくおっぱいを一生懸命に飲んで、数ヶ月で標準体重に
なりました。生まれた瞬間から何を慕い求め、何によって成長したかということを目の当たりにして、ペテロの言葉の真理が
本当によく伝わってきます。
1ペテロ2:2にある「慕い求めなさい」という言葉は、とても強い言葉が使われています。聖書の別の箇所では、「慕いあえぐ」
と訳されています。慕い求めるとは、激しく要求することです。神様は私たちがみことばを「慕いあえぐ」ほどに、強く求めること
を願っておられます。私たちは生まれたばかりの赤ちゃんが生きるために一所懸命、お乳を求めるように、自分の魂が生きる
ために激しく強くみ言葉を求めているでしょうか。
娯楽や誘惑の多い現代日本にいる私たちにとっては、み言葉を一人で慕い求めることは簡単ではありません。むしろ難しいと言って
よいでしょう。ですから、メッセージの後の分かち合い(今年から「恵みの時」と呼ぶことにしました)や、スモールグループなどで励まし
あいながら慕い求めていきましょう。そして、少しずつでも自分で聖書を開いてみ言葉を求めましょう。あなたがイエス様と
1対1で向き合い、みことばを求めることを神様は望んでおられるのです。

2.純粋なみことばを
「純粋な」とは、何も混ぜ物をしないという意味です。
毎週の礼拝のメッセージは、言うなれば食べやすくしたネギトロです。それに比べると、自分ひとりで聖書を読むディボーションは、
まぐろに直接向かっていくようなものです。どのように切るかは、皆さん次第、自分の好みに切って食べます。そこには骨もあれば、
皮もあります。部位によっていろんな味がするでしょう。食べにくい時もあるでしょう。しかし、それは料理していない素材
そのものの味です。
何の混ぜ物もない、純粋なみことばを直接食べられる特権が、誰にでも与えられているのです。
キリスト教の書物の中には、混ぜ物をしたものがたくさんあります。人間の理性で理解できるように奇跡などを一切認めないものや、
その時はやっている神学を取り入れたものがたくさんあります。ですから、私たちは純粋で、人間的な混ぜ物がない聖書その
ものに直接、向き合うことがとても大切なのです。

3.みことばによって成長する
では、私たちはなぜ純粋なみことばの乳を、慕い求めるのでしょうか。それは、みことばによって成長するためです。ここでペテロ
が言っている「救い」とは救いの完成のことです。天国へ入るまで信仰が守られると、天国で信仰が完成します。
赤ちゃんはただミルクを飲んでいるだけで健康に成長するでしょうか?ただミルクを飲むだけだと、赤ちゃんも便秘になりがちです。
健康に成長するためには、愛情と共に運動が必要です。
クリスチャンが健康に成長するためにも、聖書を読むだけでは不十分です。運動が必要です。その運動とは、聞いたみ言葉に生きて
みることです。みことばをあなたの歩みに適用すること、聖書の言葉を実際に自分の日常生活で活かしてみることです。
頭だけの信仰ではなく、生きた信仰を目指しましょう。
み言葉によって一人ひとりの成長があるならば、きっとのぼりと教会は、ますます成長して、神様に喜ばれ祝福される教会になる
と確信しています。お一人ひとりの成長と救いの完成に近づいていく歩みなくして、教会の成長はありません。たった一度しかない
地上の信仰生活です。神様から与えられたみ言葉を徹底的に、としましょう。

主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、

主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。

主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、

主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。

詩篇19:7-8


☆牧師からのメッセージ(29)☆

信じられる幸せ  

私の家内の母は幼児教育に40年たずさわっています。先日、その母と電話で話している時に、「いつもクリスマスが
近づくとこの話を思い出すのよ」と言って、話してくれたことがあります。

ある卒園生のお母さんが、「先生、うちの息子、小学校3年生になるんですけど、まだサンタクロースが来ると、固く
信じているんですよ。庭やら玄関を掃除しているんですよ。あれでよいのでしょうか。」と言いました。このお子さんは、
今は学校の先生になっていて、とてもよい先生という評判です。
また、他のお子さんは、北国のサンタさんあてに、毎年、手紙を出しているそうです。

松岡享子さんが「サンタクロースの部屋」という本を書いておられます。その本の中でこんなことを語っておられます。

「幼い日に、心からサンタクロースの存在を信じることは、その人の中に、『信じる』という(能)力を養う・・・、
心の中にひとたびサンタクロースを住まわせた子は、心の中にサンタクロースを収容する空間を作り上げている。
サンタクロースは、いつかその子の心の外に出て行ってしまうだろう。だが、サンタクロースが占めていた心の空間、
目に見えないものを信じるという心の働きが、人間の精神生活のあらゆる面で、どんなに必要かは、言うまでもない。
後にいちばん崇高なものを宿すかもしれない心の場所が、幼い日にサンタクロースを住まわせることによって作られるのだ。
・・・むしろ、見えないものを信じることを恥じ、サンタクロースの話をすることは、子どもをだますことだというふうに
考える大人が、子どもの空間をつぶし、(真実なものを)信じる(能)力を奪っているのではないでしょうか。」

サンタクロースについては、それぞれのご家庭で考えがあってよいと思います。けれども大切だと思うのは、
親である私たちが子どもたちの心の中に素敵な空間を作る手助けができたらどんなにすばらしいかということです。
そして、私たち親も本当に大切なものは、目に見えないところにあるということに気づいていけたらと思います。

暖かい本当のクリスマスを子どもたちの心に届けるためにはどうしたらよいのでしょうか。

そのためには、まず私たち大人が、本当の愛とか、希望とか、永遠に価値あるもの、真実なものをどれだけ大切にして
生きているかが問われます。
クリスマスとは、神様が罪をかかえて生きている私たちを救うために、神のひとり子であるイエス様を送ってくださった
喜びの日なのです。それは神様の最も深い愛の現れでした。私たち自身では、心の内にある罪を解決できないために、
神様の側から救いの手を差し伸べてくださったのです。この愛の贈り物が、子どもの心も大人の心も変えてくれます。
そして、目には見えないけれども、最も尊い幸せを与えてくれると私は信じています。

ぜひ、教会のクリスマスを通して、神様がおられること、お母さん方やお子さん方が神様に愛されていることを知って
いただきたいのです。神様は、あなたの苦しみも痛みも悲しみも涙も、怒りも不安も、どうしようもない寂しさも、すべて
ご存知です。あなたが神様を信じる時に、あなたの心の内に、イエス様が住んでくださいます。
クリスマスは誰か他の人のためにあるのではありません。あなたのためにあるのです。あなたのために、イエス様は来て
くださったのです。

先ほどの文章に「心の中にひとたびサンタクロースを住まわせた子は、心の中にサンタクロースを収容する空間を作り上げている。
サンタクロースは、いつかその子の心の外に出て行ってしまうだろう。だが、・・・」と続きます。
サンタクロースはいつか心の外に出て行ってしまうでしょう。しかし、決して心の外に出て行ってしまわないものがあります。
それが、神様の愛と救い、天国への約束です。それは永遠の約束なのです。いつかなくなるのではという心配はいらないのです。
永遠に信じることのできる、神様からの祝福、贈り物なのです。
先ほどの文章の続きに、「後にいちばん崇高なものを宿すかもしれない心の場所」とあります。それは、すばらしい神様の愛を宿す
心の場所であってほしいと祈っています。ぜひ今年のクリスマス、あなたも、神様の愛を信じること、信じて生きてよいこと、
そんな祝福や幸せを少しでも見つけていただけるように、心からお祈りしています。

きょうダビデの町で、あなたがたのために、
救い主がお生まれになりました。
この方こそ主キリストです。
ルカの福音書2:11


☆牧師からのメッセージ(28)☆

秋の子ども祝福式によせて−子どもと心がつながっていますか−  

きれいな秋の夕暮れの日の出来事でした。マケリゴット宣教師と4才になる娘が、刈り入れが終わった田んぼに凧あげに行きました。
風が強いのでお父さんが、凧糸をつないだ竹の棒をしっかりと握っていました。

  しばらくすると、そばにいた娘が、「お父さん、私にやらせて」と言いました。子どもだったら、誰でも自分でやりたいですよね。
けれど、風が強いので、子どもの力では無理だと思い「風が弱くなったらね」とお父さんは答えました。
しかし、風はいっこうに弱くなりません。娘はまた、「お父さん、私もやりたい!」と言います。
きっと自分で持ってみたらどれだけ大変かわかるだろうと思い、娘に約束させました。
「どんなに疲れても、決してこの竹の棒を放してはいけないよ。しっかり両手で握っているんだよ。」娘は約束しました。
凧を渡してもらった娘はうれしそうです。二人で、美しい夕焼けに浮かぶ凧をながめていました。

しばらくたつと、「お父さん!お父さん!」と娘が叫びました。もう疲れたのかと思いつつ、あれほどしつこくやりたいと
言ったのだから、少しはがまんさせようと、凧から目を離さずに、「しっかり持っていなさい」とお父さんは言いました。
すると、少したってから、娘が泣き声で「お父さん!お父さん!」と叫びました。とうとうお父さんは凧から目を離して、
娘を見ました。なんとそこには、一生懸命竹の棒を握っている娘の鼻のてっぺんに赤とんぼがとまっていたのです。
娘はお父さんとの約束があり、風も強くて竹の棒を放すこともできず、手でとんぼを追い払うことができないで、
とうとう泣き出してしまったのです。

この出来事は私たちに、とても大切なことを教えてくれているように思います。私たちは子どものためにさまざまな目標をたてます。
こういう子になってほしい、あのようになってほしい、そのためにはこれをしなくてはいけない・・・。
しかし、私たちは目標だけを見つめてしまっていて、子ども自身を見失っていないでしょうか。
ちょうど、凧にばかり目をとめて、叫んでいる娘を見なかったように。

聖書は語ります。

「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。互いに一つ心になり・・・」(ローマ12:15-16)。

親が決めた目標を達成することよりも、心を一つにすることのほうが大切ではないでしょうか。
共に泣き、共に喜び、心が一つになること、子どもと心で結ばれること、心の触れ合いをもつことは、子どもの祝福にとって
かけがえのないことではないでしょうか。

まず自分の子どもを知り、子どもの叫び声をすぐ理解することができるようにしたいと思います。
子どもがいっしょにいる時に、心を開いてお父さんに相談したいこと、お母さんに相談したいことを、より楽に、
より安心してできるように、いつでも子どもの叫び声を聞いて正しく理解できる親になりたいと思います。
神様が私たちと持っていてくださる心のつながりを、子どもたちと、そしてすべての方々と持っていけたら、
どれほど祝福あふれる生涯となるでしょうか。
                (参考:パトリク・マケリゴット「大きな緑の木の下で」)

     「牧師より祝福式によせて」
何をしてあげることが子どもの祝福になるのでしょうか、何があれば親と子どもが祝福されるのでしょうか。
多くの親は子に、よい教育、よい物を与えようと必死です。しかし、子どもの魂にも本当の暖かい祝福が必要であることを
聖書は語っています。

先ほどの聖書の言葉「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」から教えられることは、親が子どもの叫びを
聞くこと、理解してあげること、受けとめてあげることができるなら、どれほど子どもは幸せかということです。
(確かに親だって、子育て中、目いっぱい大変で、こういったことがたやすいこととは思いませんが・・・。)

時代の流れに振り回されることなく、永遠の真理を聖書は教えてくれます。 一人の子どもと親との全人格的な触れ合いと、
魂に届く真実な信仰と希望と愛とが、子どもの祝福につながるのではないでしょうか。イエス様は幼な子たちを深く愛されました。
のぼりと教会も、その愛を少しでも分かち合えたらと、心から祈り願っています。
皆様のご家庭の上に、そして特に子育て真っ最中のお母様方の上に、一人ひとりの大切な子どもたちの上に、
神様からの限りない祝福がありますようにお祈りしています。

しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。
「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。
神の国は、このような者たちのものです。」
ルカの福音書18章16節


☆牧師からのメッセージ(27)☆

松原湖での恵み―研修会に参加して― 

青い湖面に映る白い雲と紅葉しかけた木々、10月5日から7日、松原湖研修会に参加しました。
その恵みのいくつかをお分かちしたいと思います。

1.新キャビンは別キャンプ場のよう
私たちが毎月キャンプ献金でささげている新キャビン「レイクサイド・シオン」に初めて宿泊しました。
「これが今までの松原湖キャンプ場だろうか!」というのが、偽りのない感想です。景観よし、食事よし、お風呂よし、
部屋よし、とにかく一度は泊まってみてください。個人でも家族でも年中泊まれます。
ますますキャンプ場が用いられるように、祈ってささげていきましょう。

2.すばらしい聖会
2日目の夜に聖会がありました。61歳で新潟で開拓伝道(0からの教会形成)を始められた本間先生、60歳で沖縄で開拓伝道
を始められた結城先生の証しがありました。理事長の下川先生も、東京キリスト神学校を63歳で定年退職した後、4月から北海道の
牧師がいなかった教会に遣わされています。日本の人々を愛し、救いのために奉げておられる姿に心打たれました。小さな教会の
ために、祈り支える必要を覚えました。
聖会の講師は、北九州市小倉で開拓伝道を23年間続けてこられた岡山敦彦先生でした。同盟一背が高く、3人の子どもを
かかえながらバリバリのビジネスマンから牧師になった方です。開拓して3年目でこの地を去ろうとしたが、多くの方の祈り
と助けによって支えられたこと。絶望的だった会堂建築用地が人知を超えた方法によって奇跡的に与えられたこと。
会堂建築資金の返済が大変困難だったが、最後は神様がすべてを備えてくださったことなど。数々の感動的な証しを通して、
今も生きておられる神様の力強いみ業を教えられました。
そして最後に、理事たち、牧師たちに、ごまかしがないか、誠実さを失っていないかと、具体例をあげて悔い改めを迫って
くださいました。罪を罪とも感じないで慣れてしまうことの恐ろしさを教えられました。このことを言うかどうか随分迷い
苦しんだそうですが、悔い改めを迫らないことは罪だと示されたそうです。人の顔を恐れず、このようなことを言えるところが
同盟教団のすばらしさであると改めて感動しました。

3.機構改革は産みの苦しみ中
今年の4月から始められた機構改革の試行は、産みの苦しみ中です。現在は問題点を洗い出し、改革が続けられています。
引き続きお祈りください。
私たちが所属している同盟教団は、活気があり、可能性にあふれています。特に地方の困難な中で戦っておられる牧師・信徒
のために祈り、ささげていきましょう。

「こうして神のことばは、ますます広まって行き、・・・ 弟子の数が非常にふえて行った。」使徒6:7

☆牧師からのメッセージ(26)☆

祈りは神に聴くこと

今年の夏はとにかく長く、暑い日々でしたね。オリンピックがあったり、大雨、台風の夏でもありました。
皆様はお元気でしょうか。疲れを覚えておられる方も多いかもしれませんね。引き続きお祈りしています。

さて、登戸教会では、日々のディボーションを勧め、メッセージの分かち合いも始まりました。
やってみていかがでしょうか。
私自身は、いかに普段、聖書の言葉を「読み飛ばしていたか」に気づかされています。
また、いかに頭だけで理解しようとしていて、生き方にまで結び付けていなかったかを反省させられています。

神様の言葉を聴くことは、祈りと切っても切り離せません。ディボーションもメッセージの分かち合いも、
前後を祈りではさまれています。神様の言葉は、ご聖霊の助けによって、私たちの霊に語りかけられるものだからです。

サマーシリーズの中でも取り上げましたが、デンマークの哲学者キルケゴールは、祈りについて次のように語っています。

かれが真に心の底より祈ったならば、何が起こったであろうか。かれには
かれが真に心の底より祈ったならば、何が起こったであろうか。かれには
不思議なことが起こったのである。すなわち、かれが、その祈りの中で内面
的になればなるほど、一層言葉少なくなり、ついには沈黙したのである。か
れは沈黙した。実に、かれは語ることに対して、最も鋭い対立の中に入り込
んだのである。すなわち、傾聴したのである。
かれは、かつては祈ることは語ることであると考えていた。しかし、今や
祈ることは単に沈黙することにとまらないで、聴くことであることを学んだのである。
実際にまたそうである。人は自分が語っているのを聞いている限り、祈っ
ていない。語ることを止めて、神の語りかけ給うのを黙って待つようになっ
たとき、人は初めて祈っているのである。「日々の糧としての逸話365」より
私たちは、み言葉を読んだり、聞いたりした後、どんな祈りをしているでしょうか。
言葉にならない祈り、涙だけの祈り、叫ばずにはいられないような祈り、ひれふし悔い改める祈りがあるでしょう。
そして何よりも、黙って待つことの祈りなしには、神様の思いを知ることができません。
み言葉を聴く時になくてはならない祈りです。

  「主よ。お話しください。しもべは聞いております。」1サムエル3:9 

☆牧師からのメッセージ(25)☆

平和をつくる者は幸いです

8月6日、9日の原爆記念日、15日の敗戦記念日。いつ起こるかわからないテロの恐怖。イスラエルとアラブとの終わりの
見えない報復のくり返し。この時期、私たちは特に平和を祈りたいと思います。

争いに加わっている人たちは特に冷酷、無情な人たちなのでしょうか。ほとんどの人がそうではありません。
普段はよき父、よき若者が多いのです。戦後、穏やかに暮らしていた人が、ナチス時代に残忍の限りを尽くした人であった
ことがわかって驚かされたこともあります。

まず私たちが知るべきことは、争いの種はどこかから飛んで来るのではなく、自分の心の内にいつでもあることに気づくこと
ではないでしょうか。
イエス様はおっしゃいました。

「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、
殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、
人を汚すのです。」(マルコ7:20-23)

もう一つ、私たちが知っておくべきことは、私たちがいかに状況に流されやすいものであるか、他の人の影響を受けやすいもの
であるかということです。第二次大戦中のように、「キリスト教を信じるなんて非国民だ」と言われてもあなたは信じ続けること
ができるでしょうか。村八分にされようと、命の危険があろうとも、これを信じ続けるという確信がない限り、状況に流されること
になるのです。

平和というのは、単に争いがない状態ではないと私は思います。平和というのは、私たちが自分の内にある罪に気づき、神に祈り
つつそれと戦い続けて勝利している時の状態だと思うのです。

@キリストだけが真の平和を創りだせます。
「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、
敵意を廃棄された方です。」エペソ2:14-15

Aこのキリストを受け入れること。
「さあ、あなたは神と和らぎ、平和を得よ。そうすればあなたに幸いが来よう。」ヨブ記22:21

Bキリストの平和に私たちの心を支配していただきましょう。
「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。
また、感謝の心を持つ人になりなさい。」コロサイ3:15

C平和を積極的に創り出しましょう。
「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」マタイ5:9

☆牧師からのメッセージ(24)☆

受け入れる心の静けさ・変える勇気

暑い日が続いておりますが、皆様、いかがお過ごしでしょうか。
今月は、多くの人に感銘を与えている一つの詩をご紹介しましょう。

主よ、変えられないものを受け入れる心の静けさと
変えられるものを変える勇気と
その両者を見分ける英知を
私にお与えください
(ラインホールド・ニーバー)

私はこの詩を読んで、次のように祈りたくなりました。
「神よ、変えられないものを受け入れない頑固さを、変えられるものを変えない怠慢をお赦しください。」

私たちは、よく、神様が決められていること(変えられないもの)を変えようと、一生懸命になっていないでしょうか。
神様がそれでよいとおっしゃっているのに、自分の思ったとおりでないのでつぶやき続けていないでしょうか。
自分の望まないことを受け入れることは、やさしいことではありません。
人との関係にしても、病にしても、自分の置かれている状況にしても。
しかし、「変えられないものを受け入れる心の静けさ」をお与えくださいと祈ります。

私たちはまた、変えるべきものを、めんどうだから、今のままがいいと、放っておいていないでしょうか。
「変えられるものを変える勇気」をお与えくださいと祈ります。
そして、受け入れるべきものと、変えるべきものを区別する英知をいただきたいと、心から願います。

私自身の内にも、容易に受け入れられないことがあり、変えるべきなのにその努力をしない怠慢さがあります。
私たちの生涯は本当に短いものです。ですから、無駄なこと(受け入れるべきことを変えようと努力すること)に
努めるのではなく、本当にすべきこと(変えるべきことを変える)に力を注ぎたいと願います。

あなたが、感謝をもって受け入れるべきものは何でしょうか。
あなたが、努力して変えるべきものは何でしょうか。
神様に一つずつ尋ねながら、夏のひとときを過ごされてはいかがでしょうか。


☆牧師からのメッセージ(23)☆

約束されたハッピーエンド

「この印ろうが目に入らぬか!」「そんなに大きな物は目に入りません」とは答えないで、「ハハッー」とひれ伏すのが
水戸黄門の定番です。黄門様の旅には、苦難がつきもの。かならず悪者が現れて、善良な人々を苦しめます。
けれど、毎回、安心して見ていられるのはなぜでしょうか?
それは、最後には必ず黄門様が悪に勝利して、ハッピーエンドで終わることが最初からわかっているからです。

クリスチャンの生涯にも、悪者が現れ、私たちを苦しめることがあります。
困難にうちひしがれ、もうだめかと思うような時もあります。
けれど、安心していられるのはなぜでしょうか?
それは水戸黄門と同様、ハッピーエンドで終わることが最初からわかっているからです。

二人のお子さんがいらっしゃるご婦人が胃がんにかかりました。手術して胃を全部取りましたが、まもなく大腸へ転移して
再び手術を受けました。その半年後に再び発病して、医学的に治療の見込みはなくなりました。
その苦しみの中で、こんな手紙を書かれました。

「確かに、今病んでいることを悲しくないと言えばウソになります。でも、それ以上に、共に歩んできた一つ一つの出来事に
ある神様のいつくしみを思う時、悲しみの涙以上に、感謝と喜びと平安な気持ちになっている自分に気づかされます。
そして今、この時、声を大きくして言いたいことは、今、いろいろな事情で離婚を考えている人、登校拒否など子供の問題で
悩んでいる人たちに、もう一度、考え直してほしいのです。
自分たちの家族の日常生活の平凡さの中に、隠された宝を見つけてください。
神様からのいつくしみを無だにしないでください。
私は体が一つ一つ不自由になっていくぶん、心は豊かに解放されていくことを感じます。皆様に祈っていただいて、
神様に守られての命です。大切な感謝のうちに生きて行きたいと思っています。」

この手紙の一年後に、この方は天に召されました。しかし、イエス・キリストを信じて人生の希望を与えられていたので、
死の恐怖から解放され、未来に対する希望を証しされたのです。
主イエスはおっしゃいました。

「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)

あなたもハッピーエンドで終われる人生を送りませんか?

☆牧師からのメッセージ(22)☆

いのちと祝福を選択しよう

4月から始まっている新しい歩みも、2ヶ月近くたちました。皆さんいかがお過ごしでしょうか?
いのちと祝福の内を歩んでおられるでしょうか?

役員会では、いつも最初に学びをしています。今までいろいろと内容のある本を、共に学んできました。
現在は、ちょっと息抜きで「フィッシュ」という楽しい本から学んでいます。
アメリカのシアトルに、世界一活気があると言われるパイク・プレイス魚市場があります。
この魚市場から学んだ「鮮度100%ぴちぴちオフィスのつくり方」が、この本に書いてあります。

主人公は、退屈でやる気のない「ごみため」と呼ばれる職場の改革を任された女性です。
彼女は、パイク・プレイス魚市場で一番大切な「態度を選ぶ」ことを学びました。その内容をまとめると次のようになります。

どんな仕事でも飽きて、退屈になり得ます。逆にどんな仕事でも情熱を持って生き生きとすることができます。
仕事そのものは選べなくても、どんな態度で仕事をするかは自分で選べます。
私たちはいつも、何らかの態度を職場に持ち込んでいます。不機嫌な態度を持ち込んで、憂鬱な1日を過ごすこともできます。
ふてくされてやってきて、仲間やお客にいやな思いをさせることもできます。あるいは、明るいほがらかな顔で現れて、
1日を楽しく過ごすこともできます。どんな1日を送るかは、自分で選ぶことができます。
どうせ仕事をするなら、楽しく過ごしたほうがいいですね。

多くの人が被害者意識を持っています。自分の仕事がうまくいかないのは、仕事の内容が退屈だから、上司が悪い、
環境が悪い・・・。私たちは自分に選ぶ能力があることを見失っています。
選択肢があることを知らなければ、選択の余地も生じません。
いかがでしょうか。このことは、職場だけでなく、私たちの家庭で、学校で、教会で、接するすべての人に対する態度について
当てはまることではないでしょうか。

私たちの人生は選択の連続です。小さなことから、大きなことまで、選択の連続で生涯ができていると言ってもよいでしょう。
しかし、その中に自分の「態度を選択する」という大切なことが含まれていることを私は気づきませんでした。
私たちはどのような選択をすべきなのでしょうか。

「私(神)は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。」(申命記30:19)

私たちは、神様のいのちと祝福を受け、他の人にそのいのちと祝福を分かち合う選択をすべきなのです。
そして、この選択を神様はいつも助けてくださいます。

「主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。」(詩篇25:12)

無理やり上機嫌でいなさいということではありません。私たちはどう生きるかを神様と共に選べるのです。
神様にあるいのちと祝福をいつも選びたいですね。どんな時にも、そしてどんな自分に対しても・・・。

☆牧師からのメッセージ(21)☆

新学期、「脱マニュアル」のエールを

「いらっしゃいませ、こんにちわぁ。」最近、どのお店に入っても同じあいさつをされるような気がしませんか?
マクドナルドで始まったこの言い方は、今では多くのお店で聞かれるようになりました。
日本でのマニュアル式接客法は、マクドナルドと東京ディズニーランドの上陸によって始まりました。
日本マクドナルドは1971年に2万5千項目に及ぶマニュアルと共に1号店をオープンさせ、東京ディズニーランドは
300冊を超えるマニュアルと共に1983年に開園しました。

もともとマニュアルは、アメリカでさまざまな人種や教育レベルの人たちを効率的に働かせて、できるだけ同質の
サービスを提供するために考案されたものです。それが日本の社員教育に導入され、マニュアル通りにしか動けない
思考停止社員を大量生産する結果になりました。
子どもにも「おタバコお吸いになりますか?」と尋ねたり、マニュアルにない質問をされるとパニックに陥る店員など、
皆さんも出会われたことありませんか?

マクドナルドは今、「マニュアルの進化」という表現を使って、ただ覚えさせるマニュアルから、なぜそうするのか
考えさせるマニュアルへと変えています。営業本部のトレーニング部長は、「マニュアル通りのクローン人間をつくるのは
簡単ですが、それでは自ら行動する人間は育たない」と言っています。(アエラ2002.4.8.pp.9-10)

日本の今までの教育は、知識の暗記が中心で、自分では考えない人を大量生産してきました。
その結果が、指示を与えないと動かない人間、マニュアル通りにしか働けない人たちです。

エホバの証人をはじめカルトと呼ばれる宗教の特徴は、その中にいる人たちの思考を停止させることです。
外部情報との接触を制限し、行動をマニュアル化し、自分たちのやっていることを一切批判させないのです。
組織の思い通りに動く人をつくります。

私もクリスチャンになる前、宗教は思考を停止した人々が信じるものだと思っていました。
しかし、今はっきり言えることは、本物はどんな批判にも耐えうるものだということです。本物はマニュアルを越えています。
マニュアルは表面的に正しい行動を教えてくれるだけです。本物は内面においても正しさを求めます。

新年度、新学期が始まりました。いつ、どこにおいても「なぜ」の探求を忘れないようにしましょう。
「なぜ、こうするのか」、「この行動は神様が望まれていることと矛盾しないか」など。
私たちはマニュアルを超えた、本質を追及するクリスチャンでありたいと思います。

「わたし(イエス)は、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。
真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」ヨハネ18:37

☆牧師からのメッセージ(20)☆

感動を与える人生を送りませんか

卒業した方々、おめでとうございます。あなたの人生の新しい1ページが、開かれようとしていますね。
あなたは、「どんな人生を送りたいの?」と尋ねられたら、何と答えますか。
あなたには情熱を持って生きられる何かがあるでしょうか。

鈴木文夫さんは67歳の移動映写技師です。
今年の芸術選奨を受賞しました。4歳で映画と出会い、高校卒業後、映画の世界に入りました。
当時の上映技術の低さにがく然とし、「最高の映写をしてやろう」と決意しました。
大きな仕事も担当しますが、ホールや学校、公民館からの依頼を大切にしています。上映会場は大きさも形もまちまちです。
条件に合わせて、スクリーンの素材を選び、光源の強弱をつけるなどで作品の味を引き出します。
赤字でも頼まれれば断りません。
「うちが行かないと、きっと上映できない。ひとりでも多くの人に映画を見てもらいたいから。」
「お金がないか技術的に難しいか。そんな仕事しかこないねぇ」
と鈴木さんは語ります。いいものを見せるためには、時間も手間もお金もいといません。
備え付けのスクリーンでは映りが悪いと思ったら、契約になくても自分のスクリーンを持ち込むのです。
(朝日新聞「ひと」2004.3.10より)

鈴木さんは映写技師という地味な仕事ですが、この情熱が人に感動を与えるのです。
仕事の種類に関係なく、年齢に関係なく、いつでも自分の心に熱い命の通うものを持っていたいものです。
感動を与える生き方には、いくつかの要素があります。

1.ビジョン、使命に生きる
「自分はこのために生きる」という筋の通った生き方は、人に感動を与えます。イエス様はおっしゃいました。
「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」(ルカ19:10)。
ご自分の使命が明確であり、そのためにまっすぐ生きた人生でした。神様から与えられた存在目的のために生きる、
そんな生き方は情熱を生みます。人を感動させようと小細工しなくても、感動が伝わるのです。

2.損得勘定ぬきで生きる
今の日本は大変便利になって、お金さえ出せばあらゆるサービスが手に入るようになりました。
しかし、お金を払うサービスでは、してもらって当然と感じ、感動は少ないものです。
イエス様の生き方に感動するのは、まさに無償の愛だからではないでしょうか。
「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、
仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、
死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」(ピリピ2:6-8)

私たちの人生は地味であろうとも、神様から与えられたあなたにしかできない命の使い方を生き切るような歩みはどうでしょうか。
感動を通して神様の愛が伝えられることでしょう。

☆牧師からのメッセージ(19)☆

希望の共同体としての教会への期待

電車に乗ると目につくことがあります。
誰かが言わない限り席をつめない人々。「携帯電話を使わないで下さい」というアナウンスなどないかのように振る舞う人々。
そのほかにも、どこにでも吸い殻や空缶を捨てたり、「ちょっと借りる」と言ってカサや自転車を盗んだり、
万引きしても見つからなければかまわないと思う人々。

今まで日本人のモラルを支えてきたのは地域の共同体でした。
「そんなことをしたら恥ずかしい」、「人に迷惑をかけてはいけない」という共通の基準がありました。
うるさくチェックしてくれる隣近所や他人の目があったわけです。

しかし、都市化とともにこういった地域の共同体は機能しなくなりました。
絶対者を認めず、絶対的基準を持たない日本人にとって、共同体の崩壊はモラルの崩壊につながりました。
さらに追い討ちをかけたのは、家庭のしつけ・学校教育でした。「わがまま」を「個性」や「自由」と取り違えたのです。
個人主義の国といわれる欧米でも、個人のマナーやモラルについては小さい時から厳しくしつけられます。
しかし、絶対的基準のない日本でわがまま勝手に育ったらどうなるでしょうか。
結果は、「自分がしたいこと、快と感じることは善であり、自分がしたくないことは悪であり、しなくてよい」という人間を
たくさん生み出しているのです。

希望はないのでしょうか。
著名な経済学者であるピーター・ドラッカーは、「キリスト教会こそが新しい共同体の希望である」と述べています。
キリスト教の教えはニーチェが言うような「奴隷の道徳」ではありません。
弱い人々が自分で考えることができないので、出来合いの借り物に寄りかかっているのではありません。
「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ」(箴言1:7)。真理は不変です。
「私が道であり、真理であり、命なのです。」とおっしゃった主イエス・キリストの教えは絶対的基準として信頼に足るものです。

この主イエスを土台として建てられているキリスト教会。ここに希望があります。
日本のモラルはますます崩壊していくと思われます。しかし、少なくとも教会に集う幼い子供たちから若い人たち、
今年成人式を迎えられた方、年配の方々にいたるまで、神様の真理に根ざした聖い生き方をし、
この世の中で光として輝いていきましょう。
家庭生活、学校生活、社会生活、それぞれあなたが遣わされている所において、神と共に歩む祝福の年となりますように、
お祈りしています。

「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:5)。

☆牧師からのメッセージ(18)☆

恐れるな

明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
2004年、登戸教会にいただいた「神様の祝福の言葉」として選んだ聖句は、

 イザヤ41章10節「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。
          わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」

アブラハムは、その生涯に何度も人生の危機が訪れました。絶望するような出来事が起こりました。
しかし、そのたびに、神様から「恐れるな」という励ましの言葉をいただいたのです。
なぜ恐れる必要がないのでしょうか。
それは、「私はあなたと共にいる」とおっしゃってくださる神様がいつも共にいてくださるからです。
もう少しわかりやすく言うなら、「私はあなたにつきっきりの神である。片時もあなたから離れない。
つきっきりであなたと生きる神である」とおっしゃっているのです。

ある人が数えたら、聖書の中には「恐れるな」という意味の言葉が365回も出てきたそうです。
1年365日の1日に一つずつ「恐れるな」という言葉をいただく計算になります。
それほど、私たちの日々の生活には恐れがあることを、神様はご存知なのだと思います。
私たちの普段の生活では、恐れや不安にいかに立ち向かうかは、大きな問題ではないでしょうか。

「たじろぐな。私があなたの神だから」こんなことを言ってくださるお方は、私たちが信じるまことの神様だけです。
どんな偶像の神々も人間が作ったものにすぎないので、何の助けにもなりません。
しかし、私たちが信じる神様は、私たちを強め、助け、困難な時、危機の時には義の右の手とたとえられているように、
力強く守ってくださるのです。

人は愛する人のそばにずっとつきっきりで歩むことには限界があります。
夫婦でもどちらかを先に天に送ることもあるでしょうし、子どももいつかは離れて行きます。
しかし、神様はいつも私たちといっしょにおられ、歩み、永遠に共に生きてくださるのです。
主が私と共にいてくださるということは、主イエスは、私の前をどんどん先に進んでいかれるのでもなく、
後ろから尻をたたく方でもありません。

私の傍らを決して離れず、私の隣をいっしょに歩かれ、私の恐れや悩み、苦しみを理解し、
時には私と共に涙を流してくださるお方です。
私たちが迷う時は、ほんの少し先で私たちの手を引いて、行くべき道を示していっしょに歩いてくださるお方です。
この方がいっしょに、つきっきりで生きてくださるのです。

2004年、あなたが恐れや不安を覚える時、ぜひ今年の神の祝福の言葉を思い出してください。

 「恐れるな。私はあなたと共にいる。たじろぐな。私があなたの神だから。」

この神様に心から信頼して歩んでいく1年でありたいと思います。

☆牧師からのメッセージ(17)☆

トリビアな時代のクリスマスだから

今年流行した言葉の一つは、「トリビア」です。トリビアとは、「ささいなつまらないこと」という意味です。
わが家の娘も「トリビアの泉」という番組に応募しました。「華厳の滝を登ったうなぎがいる」という内容です。
どうでしょう、「へぇ、へぇ、へぇ」と感心してもらえたでしょうか。
多くの人が、知っていても知らなくてもどうでもよい内容の番組を新鮮に感じました。
疲れている現代人には、真剣に見る必要もないこともよかったのでしょう。

このトリビアな時代の雰囲気はあらゆる所で見られます。
情報技術の発達も、トリビアな情報のやり取りに貢献しています。トリビアな時代は、深い意味を考えようとしません。
しかし、人と同じ情報を共有することによってつながっていたいと願っています。これが今の時代の空気のように感じます。
しかし、あなたの人生にとって、「へぇ〜」だけでは済まされないことがあるのではないでしょうか。
あなたの生涯の中で、どうしても深い意味を考えざるを得ないことがあるでしょう。
あなたの魂、心のありのままの姿を知り、神と向き合わなくては、本当の祝福は得られないのです。
まことの神と共に自分の魂のことに向き合い、神の愛を受け取る喜び、それがクリスマスです。

およそ二千年前のベツレヘム郊外にいた羊飼いたちに、天の使いが言いました。

「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」

人は神と人とに愛され、愛するために生まれてきたのではないでしょうか。

最初のクリスマス、救い主が地上に誕生されました。
このことが、神から私への最も深い「愛の贈り物」、「救いの希望」なのです。
自分ではどうすることもできない罪の中、もがき苦しんでいる私たちに、罪が赦される道を備えてくださいました。
愛されず傷だらけの私たちを、そのままで受け入れ、とても大切な価値ある私としての歩みができるようにしてくださいます。
他人のものさし、迷信、偶像などにとらわれた私たちを解放し、永遠の命と天国の約束を与えてくださいます。
無気力、無感動、生きがいのない人生から、感動と力にあふれた人生へと私たちを移すために、主イエスは来られたのです。

人生は、ささいでつまらなそうに見えること(トリビア)の集まりのように思えるかもしれません。
生きている意味がわからない、自分の価値がわからない、そんな人生もあるでしょう。
しかし、イエス・キリストに出会う時、すべてが変えられるのです。
人生一つ一つのトリビアに思われたことにも意味が与えられるのです。
そして、その中に神の恵みを見出す幸いが与えられます。

2003年のクリスマス、あなたの生涯すべてに意味と命を与えるお方と出会うことができますように。

☆牧師からのメッセージ(16)☆

「バカの壁」を破る神の愛

「『いくら話してもわかってもらえない』『想いがどうしても伝わらない』誰もが味わういら立ち、不快感。
それを解くキーワードは『バカの壁』だった!『話せばわかるなんて大嘘だ』と思ったことは誰にでもあるはず。
『バカの壁』こそが、コミュニケーションの断絶を解くキーワードだ。
この壁についてわかると、身の回りの話が通じない人の思考がわかる。」(以上、出版社からの内容紹介)

今年最大のベストセラーは、養老孟司著「バカの壁」(新潮新書)です。
著者は、みんなバカの壁の中に住んでいるからどうしようもないと言いたいのではなく、
共通理解を探る努力をすることを勧めています。

ノンフィクション作家の吉岡忍氏は、今の時代を「自分以外はバカの時代」と呼んで、次のように語っています。

「数年来、私はこの国から地域社会と企業社会が蒸発し、人々がばらばらに暮らすようになった現実のあれこれを指摘してきた。
・・・人々の声に耳を傾けてみればよい。
取引先や同僚のものわかりが悪い、とけなすビジネスマンの言葉。
友だちや先輩後輩の失敗をあげつらう高校生たちのやりとり。
ファミレスの窓際のテーブルに陣取って、幼稚園や学校をあしざまに言いつのる母親同士の会話。
相手の言い分をこき下すだけのテレビの論客や政治家たち・・・。
ここには共通する、きわだった特徴がある。はしたない言い方をすれば、どれもこれもが「自分以外はみんなバカ」と言っている。
自分だけがよくわかっていて、その他大勢は無知で愚かで、だから世の中うまくいかないのだ、といわんばかりの態度がむんむんしている。
この現実はやっかいだ。自分以外はみんなバカなのだから、私たちはだれかに同情したり共感することもなく、
ましてほめることもしない。私たちは、横にいる他者を内側から理解したり、つながっていく契機を持たないまま
日々を送り始めた―それがこの十余年間に起きた、もっとも重苦しい事態ではないだろうか。」(朝日新聞2003.7.9付夕刊より)

エルサレム神殿にはユダヤ人の庭と異邦人の庭を仕切る壁がありました。
この壁には、それを超えた異邦人は殺されるという警告が書かれていました。
「バカの壁」よりも厚い壁です。しかし、この壁を完全に打ち壊した方がいるのです。

「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、
敵意を廃棄された方です。・・・敵意は十字架によって葬り去られました。」(エペソ2:14-16)

弱みを見せず、相手を攻撃し、壁をつくることによってしか自分を支えられないほど精神的に追い詰められた現代人たち。
そんな人たちに囲まれている中にあっても、神様の愛はどんな壁をも溶かしていくのです。
神様との和解が他の人との和解につながります。
自分が神様にとって、どれほど尊く、愛されている存在であるかを知ると、他の人の価値が見えてきます。
解決と希望は、ここにあります。

☆牧師からのメッセージ(15)☆

世界食糧デーによせて

10月16日の食糧デー、わが家では、(都合で翌日になってしまいましたが)ご飯と梅干、ふりかけというメニューにしました。
ほんのわずかですが、世界の貧しい人々のことを覚え、節約した食費を国際飢餓対策機構に捧げました。
子どもたちもこんな経験を通して、
「神様、今日もごはん、ありがとうございます」
と、形式に流れずに祈れるようになってほしいと願っています。

もしも世界の人口が100人だったなら・・・・。20人が世界の90%の富を握っています。
食糧援助よりも化粧品に40倍のお金が使われています。20人は栄養不足で、1人は死にそうなほどです。
でも15人は栄養の取りすぎです。20人は家に1台以上のテレビを持っていますが、17人には家すらありません。
もし冷蔵庫があり、着る服があり、頭の上には屋根があり、寝る場所があるなら、あなたはこの世界の75人より裕福です。
もし銀行に預金があり、財布にお金があり、家のどこかに小銭が転がっているなら、あなたはこの世界でもっとも裕福な8人
のうちの1人です。自分の車を持っているなら、あなたはもっとも裕福な7人の1人です。
                           (参考:「世界がもし100人の村だったら」)

日本の子どもたちは、1年間におこづかいやお年玉を平均77,000円もらっています。
エチオピアでは、大人が1年間にかせぐお金は、12,000円です。
日本の家の中は、たくさんの電化製品であふれかえっています。
カラーテレビ、冷蔵後、洗濯機、エアコン、ラジカセ、カメラ、パソコン、携帯電話・・・・。
その他、ぬいぐるみ、マンガ、ゲームソフトなど、あらゆるものを持っています。

飢えず、渇かず、戦争で死ぬ危険もなく、物があふれている日本で、65%の日本人が悩みや不安を感じ、
40%が「ただ何となく不満」と言います。長生きすればするほど、体の健康が気にかかります。
お金があるほど、今の快適なくらしができなくなるのではないかと不安になります。
                               (参考:「日本村100人の仲間たち」)

世界でもっとも裕福な国のひとつ日本。物があふれているのに、私たち日本人は幸せに感じず、不安や不満に満ちています。
どうしてでしょうか。

聖書の中で、パウロは次のように語っています。

「あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。
このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』
と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」(使徒20:34-35)。

私たちは、自分のことだけを考えているうちは、本当の幸せにはなれないようですね。
あなたのまわりに目を向けてみましょう。世界に目を向けて見ましょう。
困っている人が見えてきませんか。あなたの祈り、捧げ物、具体的な助けが、世界を変えていくのです。
たとえ小さくても、あなたの愛の業を神様は喜んでくださいます。

☆牧師からのメッセージ(14)☆

人生のフォーカス

昨年暮れ、娘が100円ショップで虫メガネを買いました。
それからしばらくの間は